あなたがたの間に起こった不品行について、みながうわさをしています。それは、異教徒でもしないほどの不品行で、父の妻(おそらく継母のこと)と関係を持っている人が、教会にいるそうではありませんか。
2 それでもなお、自分たちは信仰深いとしらを切るつもりですか。どうしてそのことで嘆き悲しみ、恥じないのですか。なぜその人を教会から除名しないのですか。
3-4 私はそこにはいっしょにいませんが、私もこの問題をよく考えてみました。そして、実際その場に居合わせたように、主イエス・キリストの御名によって、すでに対策を決めました。さっそく教会で集会を開きなさい。――その時、主イエスの力があなたがたと共にあり、私も霊において出席します。――
5 そして、その人を罰するために、教会から追放してサタンの手に引き渡しなさい。そうするのは、主イエス・キリストが帰って来られる時に、その人のたましいが救われるようにと願うからです。
6 あなたがたが、このようなことに目をつぶっているかと思うと、ぞっとします。たとえ一人でも、罪を犯すままに放任しておけば、やがてその影響が全員に及ぶことがわからないのですか。
7 その人を、あなたがたの間から除きなさい。そうすれば、きよさを保てます。神の小羊であるキリストは、私たちのためにすでに殺されたのです。
8 ですから、悪意や不正でいっぱいの生活から、完全に離れなさい。しっかりキリストにつながり、クリスチャン生活において、力強く成長しようではありませんか。悪意や不正のまじったパンではなく、誠実と真実という純粋なパンを食べようではありませんか。
9 私は以前、あなたがたに手紙で、不品行な者たちと交際しないように書き送りました。
10 しかしそれは、信者でない人で性的な罪を犯している者、強欲な者、どろぼう、偶像を拝む者とは口もきくな、という意味ではありません。そのような人たちから離れていようとすれば、この世から出て行かなければならないからです。
11 私がほんとうに意図したところは、自分はクリスチャンだと公言している者で、しかも性的な罪にふける者、貪欲な者、人をだます者、偶像を拝む者、酒に酔う者、人をそしる者とはつき合うな、ということです。そのような者とは、いっしょに食事をすることもいけません。
12-13 教会外の人たちをさばくことは、私たちの務めではありません。神おひとりのなさることです。しかし、教会員でありながら、このような罪を犯す者がいたら、教会として処置をとることは当然です。その悪い人を教会から除かなければなりません。
いくつもみことばが思い出されました。
神が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい。
私はあながたをしもべとは呼ばず、友と呼びます。
神へのおそれをもって神に喜ばれるように。
などです。
教会の頭はキリスト、イエスです。
このイエスと信じる者との関係を再び妨げる罪に対して、教会として厳格であるようにというのは、当然のことだと思います。
しかも、このケースように、継母との関係を持っているというようなことが、公に知れる状況などは、罪に対してむしろオープンになってしまっています。
ここが問題だと思います。
もう一つ大事なことは、継母と関係を持ったその者が「罪はゆるされる」などということを軽々しく扱っている可能性が高いと私は思うのですが、その者がやがて本当にゆるしに与るための除名でもあるということです。
教会の教会員の罪に対する厳格さは、教会員全体の救いのためであるばかりか、除名される者の救いのためでもあることを覚えなければならないです。
そして、パウロが列挙する除名されるべき者(つきあわないようにすべき者)とはどんな者か。
自分はクリスチャンだと公言している者で、しかも性的な罪にふける者、貪欲な者、人をだます者、偶像を拝む者、酒に酔う者、人をそしる者
前置きとして、
信者でない人で性的な罪を犯している者、強欲な者、どろぼう、偶像を拝む者とは口もきくなと言ってはいない。
と言うのですから、これ、私はしっかりと目を覚ますべきだと思います。
一つは、自分がつきあいを断られるべき対象になどならないように目を覚ますべきです。
私は自分をクリスチャンであると大声で言うタイプです。それで、性的な罪にふけっていたり、貪欲であったり、嘘つきであったり、神ではないものを拝んだり、酔っぱらったり、人の悪口を言ったらだめなんです。
もう一つは、そういう兄弟や姉妹に対して、寛容であることはあっても、罪のそのものは見逃してはいけないということです。
みことばをもって指摘し、罪をやめるようにする教会の”個”である必要を感じます。
これ、わかりますよ。罪の告白は、本来とても厳しくつらいものですが、ゆるされることの誤解で、まるで自慢するかのように喋る人がいるし、自分もまたそうである可能性が無くもないからです。
もうその時点で、罪が罪であることの認識と、神にとってそれが何であるか、神ご自身が何であるかを見誤っていることになります。
ところが私なんかは、信じていない人の罪にはむしろ厳格に見つめるところがあり、見下すことはあまりなくとも、そういう人とのつきあいにバリアを強く張り、クリスチャンの兄弟姉妹たちには寛容を示すというような、間違った独自価値を持ってしまっていると思います。
こういうことが問われて思い出した上のみことばは、イエスと私の関係について、一つ釘をさされたと思ったからです。
しかしそれは、意地悪な上司が部下をいびるような話ではなく、友なるイエスが、この世の中でこれからもイエスを信じて生きて行かなければならない私に対して示された、いわゆる「一線」の話だと思いました。
それがその「神へのおそれをもって神に喜ばれるように。」というものです。
地元の南大阪っぽく言うと「なめとったらあかん」のです。
本当に厳しく響いてくるチャレンジですし訓練です。
今日のみことばからは、なめとったらあかん、を実践したいと思います。
何事にも、ということになりますが、クリスチャンらしいへりくだりと大胆さを持って取り組むことです。