こういうわけでアポロや私を、神の深い御心を説明し、その祝福を配って回る、キリストの福音を預かる管理者と考えてください。
2 家臣にとって一番大切なのは、主人の命令に従うことです。
3 では私の場合はどうでしょう。良い管理者だったでしょうか。この点に関してあなたがたがどう考えようと、また、ほかの人がどう思おうと、私は少しも気にしません。この件については、私は自分の判断さえ信用していないのです。
4 良心にやましいところはさらさらありませんが、だからといって、安心しきっているわけでもありません。調べた上で判定をお下しになるのは、主ご自身だからです。
5 ですから、主がまだここにお帰りにならないうちから、何についても性急に結論を下すことがないように注意しなさい。主が来られる時、すべては明るみに出されます。一人一人の心の奥底までが見通され、ありのままの姿がはっきり見えるようになります。その時、一人一人が、ふさわしい賞賛を神から受けるのです。
6 これまで私は、アポロと自分を例にあげて説明してきました。ある人だけを特別扱いしてはならないことを教えたかったのです。神様がお立てになった教師の一人を、他の教師以上に誇ってはなりません。
7 いったい何について、そんなに得意になるのですか。あなたの持ちもので、神からいただかなかったものがありますか。その全部が神からいただいたものなら、どうして、さも偉そうにふるまうのですか。また、どうして自力で何かを成し遂げたような態度をとるのですか。
8 あなたがたは、自分に必要な霊の食べ物はみな、すでに手にしたと思っているようです。十分に満ち足り、霊的に満足しています。私たちを差し置いて、裕福な王様のようになり、王座にふんぞり返っています。ああ、あなたがたはほんとうに王様になっていたらよかったのです。そうすれば、いつか私たちも、あなたがたと共に君臨できたでしょうに。
9 こんなイメージが浮かびます。神様は私たち使徒を、死罪の判決が下された捕虜のように凱旋行列の最後に引き出し、人々や天使の前で見せ物にされたのだ、と。
10 信仰のために私たちが愚か者になったと、あなたがたは言います。そういうあなたがたは、もちろん、たいそう賢いクリスチャンなのでしょう。私たちは弱くて、あなたがたは強いのです。人受けのよいあなたがたと違って、私たちは笑いものにされています。
11 今の今まで、私たちは飢えと渇きに悩まされ、寒さをしのぐ着物さえありませんでした。自分の家もなく、どこへ行っても冷たくあしらわれるばかりでした。
12 また、生活のために、自ら汗水流して働きました。私たちをのろう人たちを、かえって祝福し、危害を加えられても耐え忍び、 13 ののしられても、おだやかに答えるのが常でした。それなのに、今でも私たちは、足もとのちりやごみのように扱われています。
14 このように書いたのは、あなたがたに恥をかかせるためではありません。愛する子どもとして戒め、さとすためです。
15 たとえ、キリストについて教えてくれる人が一万人いたとしても、あなたがたの父はこの私だけであることを忘れないでください。福音を伝えてキリストの救いに導いたのは、この私一人なのですから。
16 ですから、お願いがあります。どうか私の模範にならい、同じ行いをしてください。
17 その点であなたがたの助けになればと思い、テモテを遣わします。彼は、私がキリストに導いた一人で、主にあって愛し、信頼できる息子だからです。彼は、私自身が実践している信仰者の生き方を、私が行く先々の教会で教えているとおりに、あなたがたに思い出させてくれるでしょう。
18 「パウロはこちらへ来て話をつけるのがこわいのだ」と、思い上がっている人たちがいるそうですね。
19 しかし、もし主のお許しがあれば、私はすぐにでも行くつもりです。そうすれば、その高慢な人たちが、ただ大きなことを言っているだけか、それとも、ほんとうに神の力を持っているのかがわかるでしょう。
20 神の国は、ことばだけのものではありません。神の力によって生きることなのです。
21 さあ、あなたがたはどちらを選びますか。私が罰と叱責を持って行くほうですか。それとも、愛とやさしい心とを持って行くほうですか。
パウロは、幼い子供に対して叱っているようです。
でも実際、私自身がまだ幼い子供であることがわかってきます。
それは、きつめの言葉で叱責されてこそ背筋が伸びて、やっと”ちゃんとする”タイプなのです。
今日、一番感じていることは、訓練の必要性です。
昨今は、強制されることを一括りに「被害」として扱う社会的傾向がありますが、私に関する限り、強制でもされないと、まともには生きていくことが出来ない情けない者であることは、神の前にも自分自身にも、はっきりさせておかなければならないことです。
何しろ自分の判断に正しさがなく、ただ、何らかの欲めいたものを根拠として、何でも判断してしまう者だからです。
信仰の中での判断とか、霊的なものでそうだと言うのではなく、社会生活の中で私は根本的にそういう者だということが、露わにされる気分です。
さてパウロは、そういう類の叱責の中、
「まだ主が来られないうちになんでも性急に結論を下すな」と言っているように思えます。
私が今日、正直嫌なことですが、こういうパウロの言葉を自分への叱責であると捉えて、半ば以上自虐的に自分の汚いところを注ぎだすのは、そういう自分から出ているもののみにくさを明確にする神の意図であると思うからです。
それであってこそ、判断に限らず、思考が罪者としてのバイアスにがんじがらめであることを再度認識し、強制的に、神の御前に押し出されるわけです。
そして、パウロがここで言わんとしているのは、彼がそういう役割で召されていることでもあります。
これは、全ての使徒、弟子、信徒もそうでしょうが、自分以外の教会の友人たち、信じていない者たち全てを、神の御前にお連れすることが役割だと私は思います。
その上で、神がどうなさるのかは人間領域ではないということになります。
今日のみことばからは、特に判断についての注意が示されていると思っています。
判断と言うならまだ良いのですが、私はよく判断せずリアクションだけで動いてしまうところがあります。
咄嗟のリアクションによる行動を抑えること。
WWJD→What would Jesus doとは、以前友人の親から教えてもらった言葉ですが、これはとてもわかりやすい、聖霊へのアクセスだと思います。
「イエス様ならどうされているだろうか?」と考えることです。
リアクションではなく、WWJDでしっかり判断することを今日の実践事項としたいと思います。