愛する皆さん。私は皆さんに、クリスチャンの生活面について、まるで子どもに語るように書いてきました。実際あなたがたは、主に従わないで、好きかってにふるまっています。そんなあなたがたに、聖霊に満たされた人を相手にしているようには書けないからです。
2 つまり、堅い食物を避けてミルクを飲ませました。堅い食物の消化はむりだったからです。実は今でも、あなたがたはミルクしか飲めない状態です。
3 相変わらず、よちよち歩きもおぼつかないクリスチャンで、それは、あなたがたがねたみ合い、仲間割れをしていることからも明らかです。実際、あなたがたの態度ときたら、まるで主を信じていない人のようです。
4 「パウロとアポロとどちらが偉いか」などと口論して、教会を分裂させている現状では、主にあって少しも成長していないことをさらけ出しているようなものではありませんか。
5 私たちが争いの原因になるとは、いったい、私が何者だと言うのですか。アポロが何者ですか。ただ神に仕える者にすぎず、それぞれに特別の能力が与えられて、あなたがたが信じるための手助けをしたにすぎません。
6 私の仕事は、あなたがたの心に種をまくことでした。アポロの仕事は、それに水をやることでした。しかし、あなたがたの心の中でそれを成長させたのは神であって、私たちではありません。
7 まく者も、水をやる者も、さほど大切ではありません。大切なのは、成長させてくださる神なのです。
8 アポロも私も、同じ目標を目指して働いていますが、それぞれ、その労苦に従って報酬を受けるでしょう。
9 私たちは神の協力者にすぎません。あなたがたは私たちの畑ではなく、神の畑です。私たちの建物ではなく、神の建物です。
10 神様は恵みによって、私に、どうしたら腕のよい建築家になれるかを教えてくださいました。私が土台をすえ、アポロがその上に建物を建てました。しかし、その土台の上に建物を建てるには、細心の注意が必要です。
11 私たちがすでに持っている本物の土台、イエス・キリスト以外に、土台をすえることなどだれにもできないのです。
12 しかし、この土台の上には、いろいろの材料で建てることができます。金や銀や宝石を使う人もいれば、また木や草、わらなどを用いる人もあります。
13 やがて、すべてがテストされる、キリストのさばきの日が来ます。その時には、建築家が各自どんな材料で建てたかが明白になります。それぞれの仕事は火でテストされ、なお価値が変わらないかどうか、ほんとうに完璧な建物かどうかが、だれの目にも明らかになります。
14 そして、その土台の上に適切な材料を使って建てた人は、建物がちゃんと残るので報いがあります。
15 しかし、家が焼けてしまった人は、大損害をこうむります。その人自身は、炎の中をくぐり抜けるように、命からがら逃げて救われるでしょうが。
コリント人の手紙は、今まで何度も読んできたつもりです。
そのたびに発見し、みちびかれて、神との関係性が深化するのが聖書の不思議ではありますが、この今日のQTもまた、新しく教えられていると思います。
ミルクをいつまでも飲んでいることは悪いことではないはずです。
それは、大人だってミルクは飲むことがあるからです。
しかし、ミルクしか飲めないことは問題だよということでしょう。
そしてその信仰的な幼さが何にあらわれているかを一部明示しています。
ねたみ、対立、自己主張、党派意識などです。
その具体的例示として、パウロ党対アポロ党の対立を挙げました。
これ、あります。教会内で、自分としては如何ともしがたい流れの中、どっちの党派かをはっきりさせなければいけない時。私はそれに答えてしまいました。
ここでパウロは言っていませんが、これは、時に悪からの妨げとして入って来ることもあると思います。なぜなら、私がやってしまったその教会は、後にそれが原因で分裂しました。利得者は誰ですか?悪魔です。教会を破壊出来ましたから。
人を救い、信仰を育む力は神にあります。
その神の下に「如何ともしがたい流れ」など無いということを、しっかりと心得て対抗すること。これが、信仰において、ミルクではない固形物を口にすることの一つではないかと思います。
私がその時に言うべきだったのは
「私はどちらの党派でもない、神に属すものだ。だからそのような分裂の種になることは捨て去って、神に帰ろう。」あたりの言葉です。ここに向かって成長すべき、成長を祈るべきなのでしょう。
パウロが言うように、成長そのものは、神の力によります。その力を信じるということがまず本質的ポイントではあると思います。
火でテストされる、という事をパウロは語っています。
私はここに、パウロが言う「堅いものを食べる」ことの答えがあると思いました。
救いについては、神を信じているなら守られます。しかし、その救われた人が「で、どう生きたか」は、問われるということに気づけよということです。
神は、人間の理想を実現するための存在ではありません。
神は愛であり正義であり、人間という存在の根拠者です。神が人を創造したからです。
そして、神はご自分に似せて人間を創造されているのですから、当然、人格者であることをここで強く認識しておかなければと思いました。
つまりこれは、神との関係の深化に関わることです。
愛している人や敬っている人には、褒めてもらいたいのではないですか。
褒めてもらうことそのものは、救いとは関係しませんが、自分自身を救い出す力を持っている方だからこそ愛し、敬うのですから、それを離さず継続していけなかったら、救いもまた危うくなると私は思います。
それは、今信じなくても、いつか信じれば救われるんでしょ、という態度に似ています。そんな態度を取る人が、やがて信じることが出来るというのは、何の保証もありません。
ただ、もし今、神の教会を壊してしまう方向性のある思考を持っていたとしても、それは、神から見放されるということではないということも、よく覚えておくべきだとパウロは言っていると思います。
だからそれをパウロは、未熟であると指摘しているのです。
未熟さはそれで終わらないから「未」なのであり、成長できることを示していると言えます。
今日、私は自分のその成長を求めます。
それは、霊的成長はもちろんですが、生活の各場面、仕事も含めて、成長の幅がまだあることを期待して、祈り、一日をはじめたいと思います。