愛する皆さん。私が初めて皆さんのところへ行った時、神のことばを伝えるのに、難しいことば遣いをしたり、高度な理論をふりまわしたりはしませんでした。 

イエス・キリストと、その十字架上の死以外は語るまいと決心したからです。 

私は弱々しく、おずおずと震えおののきながら、あなたがたのところへ行きました。 

また私の説教も、説得力ある雄弁なことばや人間的な知恵にはほど遠く、単純そのものでした。しかし、そのことばには神の力があって、聞く人々は、それが神からのことばだとわかったのです。 

私がそうしたのは、あなたがたの信仰が、人間のすぐれた思想にではなく、神に根ざしてほしかったからです。

 

とはいえ、成長したクリスチャンの間では、私はすぐれた知恵のことばを語ります。しかしそれは、この地上の知恵ではなく、また滅ぶべき運命にある、この世の支配者の気に入る知恵でもありません。 

私たちのことばに知恵があるのは、それが神から出た教えで、天の栄光に導く、神の知恵に満ちた計画を告げるものだからです。私たちの語ることは、以前は隠されていましたが、世界の始まる前から私たちのために備えられていたものです。 

しかし、この世の支配者たちは、このことを理解しませんでした。もし理解していたら、まさか栄光の主を十字架につけるようなことはしなかったでしょう。

まさに、聖書の次のことばどおりです。

「人が、これまで見聞きしたことも、
想像したこともないほどすばらしいことを、
神は、ご自分を愛する人々のために
用意してくださった。」(
イザヤ64・465・17

 

とあるグローバルで展開されている伝道ミニストリーに参加したことがあります。

そこでは、福音を体系的に伝えるための方法が確立されており、それを参加者同士で練習して本番に備えます。

 

私はとてもよく覚えていましたし、うまく喋れるように”自分バージョン”をこしらえてよく練習もやっていましたから、恐らく一緒に参加していた人たちの誰よりも上手にしゃべることが出来ました。

 

ところが、実際に伝道の機会が与えられて喋り出すと、全く通用しませんでした。

聞いてもらえないのは仕方ないことだとしても、聞いてくれる人に対しても伝わらなかったのです。

 

一方、話術が全く無く、その方法だけをとりあえず覚えているだけの人がいたのですが、この人、本番になるとそれを忠実にしゃべるだけだったのですが、次々と伝道し、その中には信仰を持つようになった人もいました。

こんなことを言うと失礼ですが、私の方がよっぽどコミュニケーションも取れるし、見た目もまともに見えます。その人は、よく肥えていて、いつも汗をかいているような感じの人でした。

 

今日、このみことばから教えられることは、福音は、話術で持ち出して説得するものではないということです。

そもそも信仰の土台となっているのは、何らかの説得とか刷り込みではなく、神の力が働いているものです。

福音を受け入れるということは、話のうまさでも理論の完璧さでもなく、ただ受け入れたいという思いから受け入れるものです。

私はこのパウロが語るところを、よくよく自分のものにしなければならないと思います。

何か自分を立派な伝道者に仕立てたかったり、伝道していることをほめられたかったりするのは、神の働きを劣化させてしまうのではないかと思います。

そういう思いが入っての伝道そのものを悪いとは思いません。しかし、それごと伝わってしまうことをわきまえておかなければならないということです。

私には、そういうところがあったのだと思います。

 

パウロはここで、福音を語る者が主役となる伝道ではなく、十字架にかかられたイエスが中心であって欲しいという想いを持って語っているように思います。

これ、何かと言えば、「イエスは私たちの罪のために十字架で死んでくださった」よ、ということです。

単純ですが、あさはかなものではありません。それを聞いた人に刺さってその人の中で広がる力があります。これを邪魔してはいけないということなのだと思います。

 

今朝、このみことばを読んで本当に良かったと思いました。

人の救いに関わる重要事項だからです。

そして、このことは伝道に限らず、教会生活の中でもかなりの重みがあるのではと思います。

自分を見せるのではなく、イエスをあらわしていくことにこそ、神の聖霊の働きもまたスムーズにあらわれるのだろうと。

今、ぞくぞくっとする程の感覚が与えられていますが、それはもう、クリスチャンとしてどう生きるかということでもあるのではないでしょうか。

言葉で言い表せないのですが、イエスが十字架にかかったように生きるということです。それそのものが、人間となって地上に来てくださったキリスト、イエスの生き様に似てくるのだなあ、というものです。

つまり、それは私自身の信仰に関わるものであり、大いに成長すべき部分をパウロに指摘されているようです。

立派さではなく弱さにおいて、福音を受け入れたこと。これが自分の信仰における中心的な状況であり、そこにこそ神は力を発揮してくださったことまでを含めて、ずっと中心を成し続けていることを知らされます。

 

私は、パウロは人間として立派で賞賛されるべき人間だったと思います。

影響力があり遂行力があり、知識豊富で自信にも満ちている人だったとわかります。

しかし神は、その立派なパウロではなく、彼の弱さを通して信仰の中心を形成されたのだと思えます。その上で用いられたのだと。

 

今日私は、信仰の中心を十字架にかかるイエスに置きたいと思います。

それが何なのかは、実はわかりません。しかし、そういうことです。そこから先は、神の力の領域ですから。