26 愛する皆さん。自分たちの仲間を見回してごらんなさい。キリストに従うあなたがたの中には、知者や権力者や地位の高い人はほとんどいません。 27 それどころか、神様は、この世では愚かな者、弱い者と思われている人々をあえてお選びになりました。それは、この世で知恵ある者、りっぱな人とされている人々を辱しめるためです。 28 神様は、この世で見下されている者、取るに足りない者を選び、そういう人々を役立てることによって、力を持っている人を無きに等しい者とされたのです。

 

 29 ですから、どこのだれであっても、神の前で誇ることはできません。 30 というのは、神によってあなたがたはキリスト・イエスのいのちを得たからです。キリストは、神の救いの計画を明らかにしてくださいました。私たちを神に受け入れられる者としてくださったのは、このキリストでした。この方は、私たちを聖なる者とし、また、私たちを買い取るために、ご自身を投げ出されたのです。 31 聖書の、「だれでも誇ろうとする者は、主のなさったことだけを誇れ」(エレミヤ9・23-24)ということばどおりになるためです。

 

神の前では、社会的な地位、暮らし向き・資産状況、実績などは誇ることの土台にならないとパウロは言いたいのだと思います。

もちろん、社会的地位が高い人が救われないと言っているのではないはずです。

 

ただ、はっきりと述べている点も注意を傾けておく必要があります。

それは、神が、この世で愚かとか、弱いとか、取るに足らないと見なされる者を選ばれているということです。

その理由は、人間の誇りを打ち砕くためであると。

 

このことは、旧約聖書・新約聖書を通して、神の摂理として一貫された手法であると思います。

モーセは、人前でしゃべれない、口下手だと神の召しを拒んでいるのに、神は用いられました。ダビデにしても、羊飼いをしていた末っ子です。それがある日、電撃的に用いられています。イエスの弟子たちの中心はガリラヤの漁師たちです。

 

総勢100万人規模のイスラエルの大キャラバンを率いるリーダーに口下手のモーセを選ぶなんて、人間的常識では考えられません。

ダビデは始まったばかりのイスラエル王国の王です。普通王は、良家の子孫とか、もっと強力なリーダーシップで立派な風格を備えた者がなれるんじゃないでしょうか。

メシアの弟子に誰かを選ぶとすれば、常識があって上品な人たちになるんじゃないですか。

しかし、神は、その役割に一見見合わない素質の人物を選び出し、神が育み力づけるという手法を取られているということです。

 

クリスチャンはよく言います。栄光=立派さが、その人本人や人間ではなく神に帰すための方法です。

モーセやダビデの栄光は、神の栄光であるということがすぐにわかります。

 

そしてここですぐにそのニュアンスとして関わり出すのは、救いです。

人は人の力では救われないんです。どれほど修行を積んでも、金を蓄えても、勉強し聖書を全て暗記したとしても、聖書の達人になっても、それが原因で救われることはありません。

ただ、神の力を信じ、その力によって自分自身が救われることを信じる者だけが救われます。

私はこれが、神だけではなく、神と人との関係性の本質であると思います。

いのちという人の根本的な質は、神によって与えられることでしか自分のものに出来ないのであり、それは”神と人との関係性があるから”こそ成されます。当然です。

いのちを扱うという栄光は人には無く、神にあるのもまた当然だと私は思います。

 

よって、例えば聖書をよく知っていることとか、よく奉仕しているだとか、そういう事で自分に栄光を着せて、そうではない教会の兄弟姉妹たちを見下したり、揶揄したりするのは、明らかに神の御心に反します。

もしイエスが十字架にかかられている姿を目の前にしたら、聖書をよく知っている云々を誰かに自慢なんて出来ないはずです。でもやっちゃうんです。これ、私は経験があるからわかります。

 

コリント教会にパウロが語ることよりもわかりやすいのは、福音そのものに帰ることだと思いました。

自分を正当化するのに躍起なうちは、なかなか開かなかった私の目と耳が、あるきっかけによって弱さが与えられて、それらが開かれました。そして、福音を聞き、受け入れて救われことになりました。

人にある強さや立派さによってその人が救われるのではないのと同じく、弱さによっても救われるわけではありません。弱さによって、神の力への渇望が沸き上がり、そこに神はご自身の力を働かせられるから救われ得たということです。

 

今日のみことばの最後、エレミヤ書からの引用「だれでも誇ろうとする者は、主のなさったことだけを誇れ」とは、そういうことだと思います。

そして、教会とはそういう”誇り”によって紡がれる繊維のようなものだと思いました。

 

安直ですが、今日のみことばからは、誇らない、こととします。

自分を誇示するのではなく、神を上げて語ること。

米国スポーツのヒーローインタビューでは、時々その試合のヒーローがクリスチャンの場合、これをやります。