昔、士師といわれる人たち(イスラエルに王国が設立されるまでの軍事的・政治的指導者)が治めていたころのことです。イスラエルを大ききんが襲いました。そのため、ユダのベツレヘム出身のエリメレクは、家族とともにモアブの地に移り住みました。妻の名はナオミといい、二人の間にはマフロンとキルヨンという息子がいました。 

 

ところが、モアブで暮らしている間にエリメレクは死に、ナオミと二人の息子があとに残されました。 

 

4-5 やがて二人の息子は、モアブの娘と結婚しました。マフロンの妻はルツ、キルヨンの妻はオルパといいました。しかし、イスラエルを出てから十年が過ぎたころ、二人の息子も死んでしまいました。ナオミは夫ばかりか息子たちにまで先立たれ、とうとう一人になってしまったのです。

 

6-7 そこで、ナオミは二人の嫁を連れてイスラエルに帰ろうと決心しました。それは、故郷のユダは主の恵みによって、ききんが去ったと伝え聞いたからでした。 

 

しかし、帰郷の途についてまもなく、ナオミは考えを変えてルツとオルパに言い聞かせました。「あなたたちは、私について来るより実家へお帰りなさい。息子たちや私によくしてくれてほんとうにありがとう。

 

 いい再婚相手が見つかるようにお祈りしていますよ。」ナオミが別れの口づけをすると、二人はわっと泣きくずれました。 

 

10 「お母様、そんなことおっしゃらないで。お願いですから、お母様といっしょに行かせてください。」

 

11 しかしナオミは、首を横に振るばかりです。「いいえ、いけません。お里へ帰ったほうが幸せですよ。もう私にはあなたたちの夫になれるような息子がいないのですから〔当時、夫に先立たれた嫁は、亡き夫の弟と結婚する決まりがあった〕。

 

 12 さあ、里へお帰り。私は今さら再婚できる年でもないし、かりに再婚して、今夜にでも身ごもって息子を産んだとしても、

 13 その子が大人になるまで待てるわけもないでしょう。私の娘たち、もう私を苦しめないでちょうだい。あなたたちにつらい思いをさせたことで、もう十分主から罰を受けたつもりですよ。」

 

14 二人の嫁はまた、声を上げて泣きました。そしてオルパは、泣く泣くしゅうとめに別れの口づけをし、自分の郷里へ帰って行きました。しかしルツは、ナオミにすがりついて離れようとしません。

 

今日からルツ記のQTが出来ることを感謝します。

 

このルツ記が旧約聖書の早い段階にはされまれていることの意味は非常に深いものです。

モアブのルツは、あのダビデ王の祖となり、人としてのイエスにつながっていくからです。

ここからまず読み取るべきは、神のご計画が脈々と生きていることです。

 

さて、オルパはナオミから離れて実家に戻りました。

しかし、どうしてルツはナオミから離れなかったのか、ここが今日のポイントだと思います。

 

心情的には「あり得るなあ」とは思うのです。

義理の母ナオミは、夫も息子も失ってしまっていますが、今よりもいわゆる”男社会”の傾向が強かった当時を考えると、生存にさえ不利であったことが考えられます。

よって、ナオミが義理の娘2人に、実家へ帰って再婚しなさい、と言ったことも、オルパがそれに従ったことも、かなり合理的と言えます。

 

しかし、人は感情の生き物です。

大事なお義母さん一人残して行けない、死ぬまでお供します、という心情がルツにあってもおかしくはないと思うのです。

ただ、それだけしか見えないのでは、大河ドラマでも見ているのと同じです。

神のご計画の伏線、つまり、霊的な伏線として捉えておく必要を感じるのです。

 

イスラエルが飢饉から脱していたのは「めぐみによる」とあります。

そして、ナオミはそこに帰っていくところです。

そしてルツは、ド演歌な心情で「お母さま涙!」とすがったのではなく、そのような霊的背景のあるナオミの姿にすがっていた→神の気配にすがっていたと読むべきだと思います。これは、すぐにはっきりとすることです。

 

ただ、心情もやはり大事なことではあると思っています。クリスチャンがよく言うところの「霊性」は心情にあらわれてくるからです。

社会的な不利、経済的不利によって、大事にしている人から離れてしまうというのは、現代社会の価値観としては”まとも”とされてもおかしくないものです。

「食べていかないといけないからねえ」「金のためならねえ」→「仕方ない」となります。

しかしこれもまた、何か霊的な負の動きであるとも思えます。「金のためなら仕方ない」って、それこそ宗教的です。

誇張しますと、「金が全てだ。金のためなら他人の命をないがしろにするのが普通だ。」という宗教的な教えだと言うのです。

ただ私は、そういうことを糾弾する側にはいません。そういう社会にも人に対しても、責める資格は微塵もありません。

そんな宗教的価値観をまだしっかり抱いていることを、神に掻き出されているのです。

 

その上であらためてルツがどうしたのかを見つめる時、ここに神の試みか、またはみちびきか、証への備えのようなものも感じます。

いずれにしても、ルツがダビデに、そしてイエスに血縁でつながっていくところの必然性を感じずにはいられません。

 

今日の適用は、金のために何かを蔑ろにしない、ということです。

来月末、どうしてもの必要で、クレジットカードで支出した大金の支払いがあります。

結構な額なので、実はこれがストレスとなってしまっていることがわかります。

イスラエルを目指すナオミにルツがすがりついたように、まずはすがりつくべきところにすがりつくべきです。

しっかりと祈り、計画をはっきりとし、ただ漠然とストレスを受けることなどないようにしないといけません。

まあこれは、大人として当然のことをすべき、ということでもありますが。