イスラエルの民は、主の命令に逆らい、
カナンに住む外国人を滅ぼさなかったばかりか、
35 いっしょになって悪の道に励みました。
36 その地の偶像にいけにえをささげ、
神には目もくれませんでした。
37-38 彼らは、
わが子をカナンの偶像の悪霊にささげることまで行い、
罪のない者の血を流し、国土を汚したのです。
39 偶像を愛することは、
神の目から見れば姦淫の罪であり、
自分自身を汚すことになりました。
40 主の怒りは激しく燃え上がり、
神は彼らを嫌悪なさいました。
41-42 そのためイスラエルは、
外国人に踏みにじられるようになったのです。
彼らは敵に支配され、抑圧されました。
43 主はそのような奴隷状態から、
彼らを何度お救いくださったことでしょう。
しかし人々は、反抗的な態度を続け、
自らの罪ゆえに自滅していったのです。
44 それでもなお、主はその叫びを聞き、
その苦境を思いやってくださいました。
45 愛の主は、以前の約束を思い出してあわれみ、
46 敵でさえ、捕虜となったイスラエル人を
あわれむように配慮してくださいました。
47 ああ神である主よ、お救いください。
各地に散らされた人々を再び集めてください。
私たちは、躍り上がって喜び、
感謝と賛美をささげたいのです。
48 イスラエルの神である主は、
永遠から永遠まで賛美を受けるにふさわしいお方です。
人々が口々に、「アーメン」と言いますように。
ハレルヤ。
こうして一日のはじめにQTからはじめることは、しっかりとその日の土台を作ることにつながっています。
しかし、QTで神の愛に感動し、自分の人生を神に捧げるぞと意気込んでいても、昼頃にはもう忘れてしまって「いつも通り」になっていることは珍しくありません。
45節に「愛の主は、以前の約束を思い出して」とあります。
神は、ご自分の愛をすっかり忘れてしまわれることはありませんが、ご自分のご性質がゆえに、罪に対して潔癖なまでに排除される方です。
それでも、祝福の約束を「思い出し」、怒りを浴びせられることをとどまってくださるお方であることが読み取れます。
ここから学ぶべきことは、その「思い出し方」です。
私は私のこの世で生きている体の性質として「神を忘れてしまう」わけです。
その状態の時に、神の怒りに帰るのではなく、愛の方に帰るということです。
「神は怒っておられるから、早く帰らなければならない」ということもあり得ますが、もっと強力なものは、愛・あわれみに帰る方でしょう。
それは「神は怒りに遅く待っていてくださるのだから、早く帰ろう」です。
以前、とある牧師のメッセージから教わったことを思い出します。
少年犯罪についてです。少年期は、仲間とのノリで、色々と悪さをしてしまうのですが、これを止めるものは何か、という話でした。
犯罪によって厳罰が与えられるということは、確かに抑止にはなるのですが、それよりももっと強いものがあるのだと。
それは、親の愛とのことでした。いくら仲間に誘われていても、そんなことをしたら親が悲しむ、だからやめておこうと。少年が犯罪に走る心を止めるのは、それが最も強いというものでした。
また、もう一つ思い出すのは、昔流行ったドラマ「スクールウォーズ」でのワンシーン。再放送で何度も見ましたし、原作の本もボロボロになるまで読みました。あの影響によって私は人生の1ページが作られたとも言えます。
私はあのドラマの中で、精神的な根幹を成しているものはこれなのじゃないかと、数十年も経ってから思っています。
主人公が中学生の頃の恩師から言われたことを回想するシーンでその恩師は、「愛とは信じ待ちゆるしてやることだ」と指導しています。
神は、罪に怒り狂って「信じると言っているのに違うじゃないか!」と責め続けておられるのではなく、酷い罪に陥ったあのイスラエルの人たちにさえあわれみをかけられました。
この神の愛に帰ることがつまり、神のみこころであると思います。
神の愛を知り、やらかした罪の後悔に至ること、悔い改めてゆるしを乞うこと。
「愛してくださったあなたを忘れ、違うものに夢中になり、支配されてしまっていまいた」と言う心からの告白を、待っておられるということ。
少年犯罪心理でもドラマの話でもなく、神が実際そのようなお方であることを、聖書はその全章を通じて、語りかけています。
そこに帰らない手はないのだと、私は思います。神は約束を忘れられません。
今日、しっかりと神に帰ること。そういう日を過ごしたいと思います。