神は私たちの罪を取り除き、
はるか地平線のかなたに投げ捨ててくださいました。
13 主は、恐れかしこむ者に対しては、
父親のように優しい思いやりを示してくださいます。
14 私たちが土くれにすぎず、
15 また草花のようにはかなく、
16 風に吹き飛ばされて消えるような
ちっぽけなものであることを知っておられるからです。
17-18 しかし主は、ご自分を信じる者をいつまでも恵み、
神との契約を忠実に守り従う人を、
子々孫々に至るまでお救いになります。
19 主は天に御座をすえ、
すべてのものを支配なさいます。
20 神の命令を一つとして聞きもらさず、
すぐ実行に移す御使いたちよ、
主をほめたたえなさい。
21 神に仕える天使の軍団よ、
絶え間なく主をほめたたえなさい。
22 万物が声を合わせて、賛美しますように。
私も力いっぱいにほめ歌います。
これは確かに、福音の続きです。
神は、何をしたら救い出してくださるのか、ではなく、どんな者を救おうとしているかが明示されていると思いました。
神が救おうとされているのはどんな者なのか。
そもそも神の救いとは何なのか。
「罪を取り除く」ということです。どのようにして取り除くのかと言うと、キリストが罪人である私やあなたの代わりに死なれることによって、です。
罪が無いとか少ないとかの立派な人間だから特別に救われるわけでもなく、たくさんの献金をしたものが救われるのでもなく、毎週欠かさずに教会に通い奉仕したから救われるのでもなく、
14 私たちが土くれにすぎず、
15 また草花のようにはかなく、
16 風に吹き飛ばされて消えるような
ちっぽけなもの
をも、イエス・キリストを十字架で代わりに死なせることによって救われるのです。
もちろん、立派な人間もそうです。
もし、救われる側に何か条件を付けるとしたら、救われたい、罪が取り除かれたい、きよくなりたい、人生をもっとよいものにしたい、死から救い出されたい、どうか救ってください!という願望が心にあって、その根拠を神に・イエスに求めるという「心」です。つまり、神が差し出されている「罪のゆるし→救い」を受け取る者を救われます。この受け取り行為を信仰と言います。
誤解があってはいけないのですが、
神は、「罪を見て見ないふりをするのではない」ということは超重要です。
神はそのご性質として、罪に対しては絶対的な正義によって裁かれます。放っておかれることはありません。もし罪を持ってこの世を去ったなら、その裁きによって永遠の苦しみににあうことが聖書には書かれています。
しかし聖書は「神は愛」とも語っています。その愛によって、”救われ得る”のです。
愛と言うと、思いやりとか慈しみとか、そういう言わば感傷になびいていきそうになるのですが、神の愛と救いは感傷などという曖昧さは微塵もなく、無罪のイエスが有罪のすべての人の代わりに罪を背負った死んだ、という具体的な用意とその遂行によって成された、確かなものです。
もっと神の目線でまとめると、
・神はあなたの弱さはかなさ罪を知っておられて、あなたがそれを自分でなんとか出来ない者であることも知っておられる
・そのような人であったとしても、あなたを確実に愛しておられる→神は愛だから
・あなたの立派さではなく、その神の愛のゆえに、罪によって滅んでしまうのではなく、救い出すためにイエス・キリストの十字架という根拠を用意して実行してくださった
となります。そして、あなたが救われたいなら、自分の罪を認めて悔い改めてイエス・キリストを信じてください。信じる、という心の動き、神への方向性によって救われるのです。
私はこのみことばを福音だ!これは福音だ!という高揚で受け取っていますが、それは何なのか言うと、神は本当にマジで本気だな、ということです。
私の救いに本気であるし、確実だからだけでなく、人の救いに本気なのです。
自分が救われることだけでも神を賛美したくなって当然ですが、それって自分の思い込みだけじゃないの、というシラけが入ってきます。私の場合。
しかし、人の救いに本気であられることがわかるから、それが事実であり普遍的なものであり確かであることもまた、ぐっと迫って来ます。神は本気なのです。
そして、そのことにより神がどんなお方かをまた知って、素晴らしいお方だと賛美するようになるのです。つまり、自分のこととして「これは本当にマジで本気だ!」となるということです。神は愛ですが、確かに、完璧な正義者であられる方への賞賛にも似ていますね。