私は心から、主のきよい御名をたたえます。
2 私は主をほめたたえます。
あなたがなしてくださった数々のすばらしいことを
私は決して忘れません。
3 主は私の罪をみな赦し、病気を治してくださいます。
4 地獄に行くはずのこの身を贖い、
恵みとあわれみで包んでくださいます。
5 私の一生は祝福で覆われ、鷲のように若返ります。
6 主は、不当に扱われている者を公平にさばかれます。
7 主はご自分の意思とご性質を、
モーセおよびイスラエルの民に知らされました。
8 主は、虫けら同然の者をあわれみ、
優しくいたわってくださいます。
すぐにお怒りにならず、恵みと愛に満ち、
9 いつまでも怒りの心を持ち続けたりはしません。
10 罪の深さに応じて私たちが当然受けるべき罰を
そのまま下すこともありません。
11 神を恐れ、あがめる者には、
無尽蔵のあわれみをかけてくださいます。
日本語への訳の質の影響もあると思うのですが、
「主は・・・」と「私は・・・」の主語によって、神と著者自身の関係性を際立たせていると思いました。
私は・・・、つまり著者は神を喜び、ありがたく思い、賛美する者という立場。
主は・・・、つまり神は、著者をあわれみ、罪を赦し、守り、祝福してくださる存在。
神を信じる者と神とはこういう関係であることを、内容としては、冷静に語っているところだと思いました。
またこれは、福音でもあります。
特に、神を「どう信じるか」という点で、信仰の土台に立ち返らされるものだと思いました。
神は確かに、怒りに遅いお方です。
私の罪、私が罪人ということに対して、即座に決定的罰をくだされるお方ではありません。神は忍耐し、待ってくださる方です。
しかしこのことを、神は恐れるに値しないお方と侮ったり、神などは存在しないという考えにまで至らせているのが、この社会の全体的な姿と言えます。
そのような社会に生きる中で、神を知り、恐れ、信じ頼る者。
これが本当にクリスチャンであり、つまりこの著者(これはダビデか)が歌っているような神との関係に入っている状態のことを言います。
今日の実践は、見えない神を恐れる、です。
なんという基礎的なことだろうと思いますが、ここから、今をこの世界で行きている信徒の信仰の全てとも言えます。
これによって神は、素晴らしいことをしてくださるのですから。滝に打たれるでもなく、ひたすら何かを拝み歩くでもなく、大金を献金することですらないし、教会に通う回数ですらなく、ただ見えない神を信じ、恐れてあがめる者が、「あの世に行ける」だけに留まらず、今生きているこの世界でもたらされる素晴らしいこと、です。無尽蔵のあわれみだとダビデは言っています。
私には、「信じない」という選択は無いと思えます。