主よ。私の祈りを聞き、
私の訴えに耳を傾けてください。


この悩みの時にこそ、私を放っておかず、
すみやかに答えてください。


3-4 私の日々は、煙のように消えていくからです。
私は肉体ばかりか心も病み、
草のように踏みにじられ、しおれてしまいました。
食欲もなく、何を食べても味けないのです。
絶望して嘆き、うめき続けたこの身は、
骨と皮だけになりました。
まるで、はるか遠い荒野に住むはげたかや、
仲間からはずれて荒野をさまようふくろうのようです。
屋根にとまった一羽の雀のように孤独をかみしめ、
一睡もできずに身を横たえているのです。

敵は、くる日もくる日も私をののしり、のろいます。


9-10 神の激しい御怒りにふれて、
私はパンの代わりに灰を食べ、
涙まじりの飲み物を飲むのです。
私は神から放り出されました。


11 私の一生は、夕方の影のように素早く過ぎ去り
草のようにしおれます。
12 それに引き替え、永遠の王である主のご名声は、
いつまでも語り継がれます。

 

13 私は、あなたがエルサレムを
あわれんでくださることを知っています。
今こそ、その時です。
14 あなたの国は、城壁の一つ一つの石にも愛着を覚え、
通りの土さえ大切に思っているのです。
15 諸国の民や支配者たちは、
主の前で震え上がりますように。
16 主が栄光の姿で現れ、
必ずエルサレムを再建してくださる
からです。


17 神は、苦闘している人の祈りを聞かれます
主には、忙しくて彼らの願いが耳に入らない
などということはありません。


18 このことを記録にとどめるのは、
子孫たちにも神のなさったことをたたえさせ、
次の時代の者に主を賛美させるため
です。


19 さあ、こう伝えなさい。
主は天から見下ろし、
20 奴隷として死ぬ運命にある民のうめきを聞いて、
解放してくださった
と。
21-22 すると人々はエルサレムの神殿になだれ込み、
主を賛美し、その歌声は都中に広がる
でしょう。
世界の国々の王も、
主を拝もうと詰めかけて来る
ことでしょう。

23 主は、寿命を短くして、
人生半ばで私を倒れさせました。
24 そこで、こう申し上げました。
「ああ、永遠に生きておられる神よ、
どうか私を、人生半ばで死なせないでください。
25 はるか昔、あなたは地の基礎をすえ、
天をお造りになりました。
26 それらはやがて消え去りますが、
あなたは永遠に生き続けられます。
着古した着物のようにすり切れたものは、
新しいものと取り替えられますが、
27 あなたご自身は永遠に不変です。
28 そして私たちの家系も、あなたの守りのもとに
世代から世代へ継承されていくのです。」

 

日曜日は朝早いので、ゆっくりとQTしている時間がほとんどなく、次の日の月曜日に、日曜日分と月曜日分のQTをします。

 

なので、今朝は2日分として詩編102編を1から28節まで読んだのですが、これは一つのパッケージで捉える時に、苦しみと神の救い、焦点が自分自信から神へと移動していく著者の視点の移り変わりがよく見えます。

 

序盤には、苦しみを訴えますが、これは訴えと言うより吐露です。

「クリスチャンかくあるべき」という風に自分に対して投げかける傾向が、特に日本のクリスチャンにはよくあるように思うのですが、信じているのにそうなれない時(罪がある時等々)、信じているのに虚しさを感じる時、信じているのに恐れに支配される時、そういう「信じているのにあるべき姿になっていない自分に落胆を覚える時」、信じる心と共にそれらすべてのネガティブなものを携えて、神に会いに行くことが祈りなのだなあ、と私は感じました。

言い換えると、神の前で「強がる必要などない」ということです。

 

そしてそこからいっきに神に視点が移っていきますが、この鮮やかな動きこそ、もしかするとクリスチャンとしての「あるべき姿」なのかも知れません。

それは、信じるってどういうことなのか、の中心部分でもありますね。

 

私の個人的な体験であり、勝手な見立てでもあるのですが、自分がしんどい苦しい情けない、と言う嘆き節を神に持って行く時、天から神の声が響き渡るのではなく(いつもそうあって欲しいと願っていますが)、そんなことを嘆いている神は私をどのように見られるだろうかと思うようになってきます。近いことかも知れません。

そしていよいよ、神から何が何でも離れないという霊的なしがみつきが沸き上がります。

 

102編の著者は、更に焦点を遷移させて、神の御心(これは伝道ですね)、神の賛美へと移っていきますが、そこではっきりと一つの結論へと至っています。それは、その私の「しがみつき」の理由とか正体に至っている部分であり、人間である私の虚しさと永遠の神にあるつながり→どうして救われる得るかの構造部分であると言えます、ハレルヤ連呼な。

 

今日のみことばからは、18節の事、つまり証と福音の伝承を実践内容としました。

どんな方法でもよいし、どんな規模でもよいから、とにかく、この御心に従うことが大事です。

救われた「ハレルヤ」は、同時にここまで視点を伸ばさせるものです。神の愛に触れて、神の救いの理由に触れていくからです。

そしてこのことについても祈り、小さな前進を今日果たしたいと思います。