主よ。あなたがどんなに恵み深く
公正なお方であるかを、ほめ歌います。


私は潔白な道を歩もうと心がけていますが、
神の助けなしには何もできません

特に、御心にそった歩みをしたいと
せつに願う家庭の中でこそ、
助けていただきたいのです。


卑しいものを退け、あらゆる不正を憎んで、
それにかかわることがないように助けください。
いっさいの自己中心を捨て、
すべての悪から遠ざかります。

陰で隣人を中傷するような人間には容赦をしません。
また、人々のうぬぼれや思い上がりも
黙って見てはいられません。


神を敬う人こそ真の英雄と考えて、
私の家へ招きます。
身も心も潔白な人だけが、
わが家の召使となれるのです。
うそを言ったり裏切ったりする人を
泊めることなどいたしません。


悪人を追い出して神の都を守ることが、
私の日々の務めなのです。

 

今日のみことばを読んだ時、公義という言葉を思い浮かべました。

 

聖書で語られるところの公義は、神の前でも人の前でも義を行うこと・行おうと努めること、と言えそうですが、我が家はどうなのだろうと。

 

何気ない教会であった事の本音を、二人になった時に口をついてくることが無いか。

あります。不平・不満ということはないのですが、裁いたり、批評したり。

神が見ておられる目の前で、それを言うことが出来るか?という話です。

 

何日か前のQTで、強いインパクトのあるみことばに出会いました。

それは、神による支配の原動力は「きよさ」である、というものです。

 

この支配がまだ見えない状態であっても、進んでそこに入ることを「信仰」と呼ぶこともできると思いますが、それは、神のきよさに入っていく、私の場合、神のきよさに憧れていくことにニュアンスとして近いと思いました。

 

きよいこと、というのは、何とかしてこしらえるような簡単なものではなく、ただ与えられたり入れてもらったりすることでしか関与すら出来ない、特別なベイルのようなものであると思うのです。

 

そのベイルの内に住まわっているか、というのが、今日のみことばによるチャレンジです。

 

そしてダビデは、自分では無理だけどめぐみ深い神はそれを成してくださる、家庭にこそそれが成されて欲しいのだという、これはもう叫びに聞こえますね。

ダビデが家では、誰かの陰口を言ったり裁いたりばかりしていたのではないでしょうが、そういう事があり得る状況について、嘆いていたのかも知れません。

そういう家庭、日常、毎日をきよさによって治めていただきたい、公義を行う者でいたい、そしてそれは神の「きよさ」を与えられることによって実践可能だと言うことがわかっていたのでしょう。だから、祈ったのです。

 

わかります。そこに、祈りのポイントがあります。

教会にいている時の自分や家内、教会の人たちと話をしている自分や家内、神はもちろんそういう私たちを見ておられますが、本当の姿は、家に帰ろうと車に乗り込んだ時ですし、家に帰った時であり、これこそ、神がフォーカスしておられる部分だと思います。そして、この影に光を差していただくことにこそ、願いがあります。

自己分裂してしまいそうですが、神と自分の関係性のみを見つめて→周りの目や神学も世の正しさも無視して、厚かましさも汚さも過去も何もかもを持って尚神の前に出ていくことですね。「大胆に出て行く」とはそういうことではないのでしょうか。

まだまだ変えられないと、変えて欲しいところがたくさんあることを思い知ります。

パウロは、善い事をしたいと願っているのに罪を行ってしまう、というような嘆きを記しました。そういう種類の自己分裂です。

 

今日は土曜日ですから、一つの機会です。

神のあわれみに入って、家内ともこのことを共有し一日を始めたいと思います。