主は全世界の王です。
大地よ、喜んで跳びはねなさい。
最果ての島々も喜びなさい。
2 雲と暗闇が主を取り囲み、
正義がその王座の土台です。
3 火が神の前を先だって進み、敵をみな焼き滅ぼします。
4 大地は、主のいなずまがあちこちで光るのを見て、
おののきます。
5 山々は、主の前でろうのように溶けました。
6 天は主の正義を宣言し、
世界中の人々が主の栄光を仰ぎます。
7 拝む価値もない神々を誇る者どもは、
恥をかきますように。
その神々はみな、主の前にひれ伏すべき存在です。
8-9 主よ。エルサレムとユダの町々は、
あなたの公正な判決を耳にし、喜びにわいています。
主の威厳に満ちた支配が全地に行き渡り、
他の神々ははるか足もとにも及ばないのですから。
10 主は、悪を憎む人をいとおしまれます。
主の民はいのちを守られ、
悪者の手から救い出されます。
11 光は神を敬う者のために種のように蒔かれ、
喜びは正しい者のために蒔かれます。
12 神を敬う者がみな幸せになり、
きよい神に冠をささげますように。
毎日、聖書のみことばに親しんで、毎週、牧師さんのメッセージを聞いて、祈りや出来事から霊的な事柄をダウンロードし続けていると、自分の中にある何かが少しずつ変化していっていることと、その変化がずっと続いていることを感じます。
ここ2年程、私から見える景色は、右目で神の国を見て、左目でこの世の中を見る、というような、何か三次元では説明がつかないような分離されたプラス1次元としての神の国を見るようになった気がしています。
きっかけは、列王記のQTからだったと思います。
だから、今日のみことばが持っているニュアンスを、私は感覚的に理解することが出来ます。もちろん、私個人の感覚として。
そして、正されるべきことは、右目で見えている世界と左目で見えている世界は、同時に起きていることであって、支配者は同じ主であられるということです。
ところが、左目の世界では人々は、神ではなく人しか見ません。
そして、自分こそが神であるとか、王であるとか、その神をいないとしている世界での頂点に行きたがる人が大勢います。
「神を信じている」と言いながら「神とは〇〇であるべき」などという考えで固まり、自分の快楽とか願望の都合に合わせて神を変化させる世界とも言えます。神を無視しているも同然です。
右目に見える神の国のリアリティが徐々に強まってくると、この世界に怒りのようなものを覚えてくるようになります。怒りというか、もどかしさですかね。
先日、母が亡くなり仏式の葬儀に参列しましたが、正直、あの儀式そのものが私には苦痛でした。私は長男ですし、母が仏式を強く希望していたことから、参加しないわけにはいかなかったのですが、よくある一通りの儀式の中での行為は拒否しました。家内と共に。単に嫌だったからです。
そういう中、姉の昔の勤め先での上司という方が、焼香台の前で焼香をあげず、数珠も持たず、長めにお祈りをしている姿を見ました。
式の後で確認すると、その方はクリスチャンでした。そして、姉がイエスを信じるようになることを今も祈っているとのことでした。
また、私がイエスを信じるようになったこと、そしてイエスを信じる家内と結婚したことを、「開かれた」とおっしゃっていました。
そこで知ったのは、あの方は、姉にフォーカスしながらも、私たち家族に救いが来ることを祈っておられたことです。
私は、私が勝手にクリスチャンになったと思っているところがありましたが、実は、そのことが来るずっと前から祈られていたわけで、そういう背景があったのだということを知り、ゾクゾクっとしました。
右目に見える神の国というのは、そういう世界なんですね。自分のことではなく、誰かが神と出会い、神を体験し、神を信じることを祈る世界。そういう世界がこの世の中で並行している。
そこでは、祈りはまるでBGMのようなもので、右目の世界の空気感を支配しているものです。きっと、賛美もみことばも、空気感の中を支配しているものと言えます。
左目に見えている世の中のために、祈らなければならないとわかってきます。
支配・正義・さばきは神のものです。そして神は愛であることもしっかりと覚えて、あわれんでくださるようにと、祈らなければならない。それが解決なのだと、今日、示されていると思います。