主に「感謝します」と言うこと、
神々にまさる神に賛美の歌をささげることは、
なんとすばらしいことでしょう。
2 朝ごとに、「恵みを感謝します」と言い、
夜ごとに、神の真実を喜びなさい。
3 十弦の琴やリュート、竪琴をかなでながら、
賛美の歌を歌いなさい。
4 こんなにも多くのことをしてくださった主に、
感謝せずにはいられません。
喜びの歌を歌わずにはいられません。
5 主よ、あなたはなんとすばらしい奇跡を
なさることでしょう。
あなたの御思いの深さには測りがたいものがあります。
6 浅はかな者には、とても理解できず、
愚かな者の想像も越えています。
7 たとえ、今は雑草のようにはびこっていようと、
悪人を待ち受けているのは永遠の滅びだけです。
8 主は永遠に天であがめられるお方ですが、
9 神に対して悪事を働く者は、滅びに至るのです。
10 しかし、あなたは私を、
野牛のように強くしてくださいました。
あなたに祝福されて、力がみなぎりました。
11 敵が刑罰を宣告されて滅ぶ様子を、
私はこの目で見ました。
12 しかし、神を信じて従う人は、
なつめやしの木のように青々と茂り、
レバノン杉のようにそびえ立ちます。
13 主の農園に移植され、
神ご自身が世話をしてくださるからです。
14 その木々は、老木となっても実を結び、
青々と茂ることができるのです。
15 このことは主の栄誉となり、
その真実を人々に知らせます。
主は私の隠れ家です。
主は恵みそのもののお方です。
母が亡くなり親戚が集まる機会となっているのですが、うちの親戚には金持ちの人たちが多く、そういう中でうちの父と私たちは、ひっそりとしています。
私と家内だけがクリスチャンです。
話の話題は、旅行や車、家、子供、孫、健康が主となっています。
ざっと言うと、うちの家は貧乏ですから、大きな葬儀ではなく小さな葬儀で、車は軽自動車で家は借家で、私たちには”跡取り”である子供も孫もいませんし、姉も父も健康というわけではありません。
ですから、何となく、話題についていけないところがありますし、見下げられているなあとは感じています。
ただ、今日の詩編にあるように、私たち夫婦はクリスチャンであるがゆえ、そのような中でもとても強く、悲しみも恥ずかしさもなく、むしろどこから福音の話を切り出そうかと虎視眈々としているのです。
そして、母は亡くなってしまいましたが、神がしてくださったことへの感謝が私には強くあります。
それは、家族の和解です。もう私が幼い頃からうちは分裂家族で、家族揃ってどこかに言ったというのは、私の記憶では1回だけです。
小学校4年生の時の正月に、とある大きなお寺に車で行ったことです。そこで撮ってもらった写真を、けなげな事に、私は小さなフレームに入れてそれっぽく机に置いていた記憶があります。
父と母が顔を合わせればけんかになり、バブルが崩壊してしてからはもう、金の事での争いなどもあって、それはそれは難儀でした。その恨みのようなものが延々として離れない家族となっていました。
私は早々に家を出ましたからましでしたが、姉がずっとそういう両親と共に居続けていてくれました。
そういう家族に、いつの間にか、関係の回復が訪れていたのを、私は今の時になって知っています。
親戚らが帰ってから、遺体となった母の回りで、私たちは昔話をして笑いました。
姉にも私にも、かなりのお金と時間、社会的な機会を失くしてしまったことの恨みが、父にあったのですが、そういうものももう無くなっていることがわかりました。
私たちは、仲良く話をしました。イエスを受け入れたその時の祈りを、神が実現してくださっていたことに感謝し、賛美します。
母には福音を完全に届けることが出来なかった後悔はあるのですが、これからは、その後悔に立ちながら、父と姉がクリスチャンになれるように、みちびかれたいと思いました。
私たちには、旅行も立派な車も持ち家も子供も孫もありませんが、私が先に主のシェルターに入り、そこに近いところに、姉や父はいることがわかります。
今日からは、仏式の儀式となります。私や家内はそのような状況の中にあって、ますます神に心を注ぐことになると思います。
特に、今日のみことばは、そのトリガーです。神は、いずれは消えてなくなるものや、危うい土台の上に立つ何かではなく、永遠の砦、基礎を提供し、その上で養ってくださるお方だからです。主をほめたたえます。