26 食事の最中に、イエスは一かたまりのパンを取り、祝福してから、それをちぎって弟子たちに分け与えました。「これを取って食べなさい。わたしの体です。」

27 またぶどう酒の杯を取り、感謝の祈りをささげてから、弟子たちに与えて言われました。「みな、この杯から飲みなさい。 28 これは新しい契約を保証するわたしの血、多くの人の罪を赦すために流される血です。 29 よく言っておきますが、やがて父の御国で、あなたがたといっしょに新しく飲む日まで、わたしは二度とぶどう酒を飲みません。」

 

30 このあと、一同は賛美歌を歌うと、そこを出て、オリーブ山に向かいました。

31 その時、イエスは弟子たちに言われました。「今夜あなたがたはみな、わたしを見捨てて逃げるでしょう。聖書に、『わたしが羊飼いを打つ。すると羊の群れは散り散りになる』(ゼカリヤ13・7)と書いてあるからです。 32 しかし、わたしは復活して、もう一度ガリラヤに行きます。そこであなたがたに会います。

 

33 「たとえ、みんながあなたを見捨てようと、この私だけは絶対に見捨てたりしません」と訴えるペテロに、 34 イエスは言われました。「はっきり言いましょう。あなたは今夜鶏が鳴く前に、三度、わたしを知らないと言います。」

35 しかしペテロは、「死んでも、あなたを知らないなどとは申しません」と言い、ほかの弟子たちも、口々に同じことを言いました。

 

これは聖餐式で使われることが多いみことばですが、イエスを信じて救われる者が決して忘れてはいけないところだと思います。

イエスが流された血は救いの保証です。これを飲む=一体となっている者であることを強く受け取るところです。このことは、霊的なことではあるのですが、むしろ飲み物とか食べ物の理解として覚えていく方がわかりやすいと思いました。

イエスの肉を食べ、血を飲み、それによって作られた体に変えられているということです。

 

そして、イエスはご自分が復活することをここで宣言されています。

復活というのは、極めて霊的な現象なのですが、これもまた、宣言とか霊的とか、大それた物事として受け取るより、むしろ、イエスが淡々と「予定」を話されたと取る方が、やはりわかりやすいと私は感じています。

感情や高まりではなく理性で受け取るということです。

 

この理性で受け取るべき2つはセットで極めて重要です。

この「食事」と「予定→実現」はつまり、イエスが今も共にあることの証そのものであり、イエスと個人の関係性とそこからみちびかれる救い・永遠のいのちへとつながるからです。

 

ここには、救われる側には何の努めも無く、ただ食べるだけ、ただ信じるだけ、ただ神の愛によってのみ救われる・守られることがわかる要素があります。

 

ペテロをはじめ弟子たちは、その予定の中に組み込まれていたと言えます。

この時点で彼らは、恐らく感情的に受け止めていました。ですから、「私は出来る」「裏切らない」と叫びます。それがご計画のうちだと言うのです。

しかし、実際ペテロはイエスを否み、弟子らは逃げてイエスを去ります。感情ではどうにもならないものの前に立たされるのです。

 

しかし、イエスの予定が実現され、それから別の予定である聖霊が下り、弟子たちはいよいよわかることになって、全貌が見えてきます。

 

もう一つはっとさせられることは、この神からの愛は、感情とは異質のものだということです。それはこの、保証と予定にあらわれるように、必然性や関係性に根差しているものであり、これを親から子への愛に近いものとすると、わかりやすくなってきます。ただ親から子の愛より、神から私たちへの愛の方が、「確実に実践」という点で完璧なものではあります。

 

私は今日、感情で受け止めない、を適用にしたいと思います。

ここは、焦点を合わせ続けた上で、ということが前提となりますが、神に焦点が合っている必要はあります。