14-15 このことがあってから、十二弟子の一人、イスカリオテのユダが祭司長たちのところへ来て、「あのイエスをあなたがたに売り渡したら、いったい、いくらいただけますか」と聞きました。こうして、とうとう彼らから銀貨三十枚を受け取ったのです。

16 この時から、ユダはイエスを売り渡そうと機会をねらい始めました。

 

17 過越の祭りの日、すなわち種なしパン(イースト菌を入れないで焼くパン)の祭りの最初の日に、弟子たちが来て、イエスに尋ねました。「先生。過越の食事は、どこですればよろしいでしょうか。」

18 「町に入って行くと、これこれの人に会います。その人に言いなさい。『私どもの先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちといっしょに過越の食事をしたい」と言っております。』」 19 弟子たちはイエスの言われたとおりにして、夕食の用意をしました。

 

20 その夕方、十二弟子といっしょに食事をしている時、 21 イエスは、「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしています」と言われました。

22 これを聞いた弟子たちはひどく悲しみ、口々に、「まさか私のことではないでしょうね」と尋ねました。

23 「わたしといっしょに鉢に手を浸している者が裏切るのです。 24 わたしは預言のとおりに死ななければなりません。だが、わたしを裏切るような者はのろわれます。その人は、むしろ生まれなかったほうがよかったのです。」 

25 ユダも、何げないふりをして尋ねました。「先生。まさか私ではないでしょう。」「いや、あなたです。」イエスはお答えになりました。

 

イエスの十字架への道がいっきに加速しているように見えます。

イスカリオテのユダの裏切りが顕著になり、過ぎ越しの食事のセッティングも十字架に向けたセッティングと言えるでしょう。

 

私個人の思いなのですが、イエスが十字架にかかってくださったことは、心傷めるような出来事でありながら、それそのものが福音→良い知らせであることは間違いありません。

ですから、イエスがそこに向かわれるところを胃が痛むような思いで追いながらも、他方では喜びのおとずれを感じているのです。

これは、イエスがその後復活されているからだと思います。演歌や演劇にあるように、”悲しみ”を娯楽として楽しむというのではなく、喜びが伴っている悲しみなのです。

今日のみことばからは、そういう物事の前後が同時に押し寄せるような”道”が顕著になってきたことを感じさせられました。

 

今日の適用は、イエスを裏切っていることはないか、です。

イエスが言われるように、十字架への道は、神の御心でありプランです。

しかし、だからと言ってイエスへの裏切りもいわゆる「御心」とされるわけではありません。

イスカリオテのユダの裏切り行為それそのものについては、裏切りでしかなく、罪であることに疑いがありません。

後に、ユダは悔い改めないただの落胆と後悔のモデルとなります。これもまた、福音のセットであると感じていますが、そのようにならないためには、芽の時点での悔い改めが必要だと思います。

今日はそれが示されていると思うのです。イエスを裏切っていることをまずは思い出して告白していきます。