イエスはこれらのことを話し終えると、弟子たちに言われました。

 

「あなたがたも知っているように、あと二日で過越の祭りが始まります。いよいよ、わたしが裏切られ、十字架につけられる時が近づいたのです。」

 

ちょうどそのころ、大祭司カヤパの家では、祭司長やユダヤ人の指導者たちが集まり、 イエスをひそかに捕らえて殺そうという相談のまっ最中でした。

しかし、「祭りの間は見合わせたほうがよいだろう。群衆の暴動でも起こると大変だから」というのが、彼らの一致した意見でした。

 

さて、イエスはベタニヤへ行き、ツァラアトの人シモンの家にお入りになりました。 そこで食事をしておられると、非常に高価な香油のつぼを持った女が入って来て、その香油をイエスの頭に注ぎかけました。

 

それを見た弟子たちは、腹を立てました。「なんてもったいないことを!  売ればひと財産にもなって、貧しい人たちに恵むこともできたのに。」

 

10 イエスはこれを聞いて言われました。「なぜ、そうとやかく言うのですか。この女はわたしのために、とてもよいことをしてくれたのです。 

11 いいですか。貧しい人たちならいつも回りにいますが、わたしはそうではありません。 

12 今、この女が香油を注いでくれたのは、わたしの葬りの準備なのです。 

 

13 ですから、この女のことは、いつまでも忘れられないでしょう。そして御国のすばらしい知らせが伝えられる所ならどこででも、この女のしたことも語り継がれるでしょう。」

 

十字架への道が更に近づいて、この辺からは霊的な意味合いが増している気がします。

 

イエスはこれまで、ご自分が死ぬこととよみがえることを語っておられましたから、情報としては一応、イエスが亡くなると言っておられる、ことを知っていました。

 

真剣に聞いていなかったのでしょうか。ここで思い出されるのはペテロが言った「そんなことがあってはいけません」という言葉です。

そして、それに対してイエスは「さがれサタン」と言われました。

 

理解はしていながらも、そんなはずはないだろう、という期待が入り混じっていたのだと思います。

 

一方でこの女は、イエスが亡くなることを明確に知っていたというより、どこか霊的な察知を持ちながらイエスに近づきナルド油を注いでいたような気がします。

 

弟子たち、或いは、ここではユダヤ指導者たちも含めてですが、情報としてイエスを扱った者たちと、霊的にイエスを取り込んだ(言葉が難しい)者との差が顕著に見えるのです。

 

これは何なのかと感覚を思いめぐらせてみたのですが、構図A:自分にとってのイエスという存在、構図B:イエスという存在にとっての自分、という、自分が中心かイエス中心か、という、信仰上とても大事な対比が見られてきました。もちろん、女はBなのです。

 

ナルド油の女に関して、牧師さんなどから数多くのメッセージを聞いてきましたが、なんとなくそれが理解出来てきた気もします。それは、あの女は愛によってイエスに反応していたということです。

 

恋愛の愛とは違いますが、似た要素は持っていると思います。

恋愛の愛というのは、そこに理屈はあまり存在せず、かなり盲目になります。絶対的な好意を寄せる対象となって、対象を肯定することに議論を挟まないところがあります。言わば、信仰です。それによって、超高価なナルド油を注ぐという行動が起きました。これから亡くなると言われるイエスに、ただ、そうしたかったのだということです。

 

弟子たちは、もったいない、という経済的な合理性→理屈をもってそれを見たわけですが、これらはこの場面においては、いわゆる救われる信仰ではないものの、これによってこれから少し先、弟子たちは用いられられる道へとみちびかれ得るわけです。

別の見方をすれば、全ては神の主権の内の出来事であると断言できます。

 

今日のみことばからは、主を愛すことを学びましたが、特に、正直な自分のリアクションとか直観的なものにもう少し身を委ねてみるべきなのかと思いました。

私はもともとは直情的な人間ですが、志向的に論理的であろうとしています。しかし、愛の無い者には神はわかりません神は愛だから、と言われるように、神は間違いなく論理どころの話ではない愛をもってして、やっとわかってくるものです。

そして、この人間社会もまた、似たところがあると思います。論理の代わりに愛、ということは言えないのですが、そういうアプローチは興味深いです。