29 これらの迫害が続いたすぐあとで、太陽は暗くなり、月は光を失い、星は天から落ち、天体に異変が起こります。

30 その時、わたしが来るという前兆が天に現れるのです。地上のあらゆる国の人々は深い悲しみに包まれわたしが力と輝く栄光を帯びて、雲に乗って来るのを見ます。 31 ラッパが高らかに鳴り響く中で、わたしは天使たちを遣わします。天使たちは、天と地の果てから果てまで行き巡り、選ばれた者たちを集めるのです。

32 さあ、いちじくの木から教訓を学びなさい。いちじくの葉が出てくれば、夏は間近です。 33 同じように、このようなことが起こり始めたら、わたしはもう戸口まで来ているのです。 34 それらのことが全部起こってから、この時代は終わりになるのです。

35 天地は消え去りますが、わたしのことばは永遠に残ります

 

米国の現代的賛美歌の中にいくつか好きなものがありますが、詩編13を基にしたこの歌は、心が通うものです。

How Long, O Lord, How Long? (Psalm 13) • Official Video

 

How Long, O Lord, How Long?


主よ わたしたちの神よ あなたのもとに来ます
なおも御顔を 隠されるのですか あなたの前に叫び ひざまずいて祈ります
主よ いつまでですか いつまでですか

悲しみの中で わたしたちは弱り果て 恐れに取り囲まれています
かすかな信仰と涙の中で 天を見上げます
主よ いつまでですか いつまでですか

あなたの栄光が わたしたちの目を満たし 信仰が 見ることへと変えられるまで
渇いたわたしたちのたましいが 満たされるまで
主よ いつまでですか いつまでですか

敵も 仇も 喜んでいます 不義が 支配しているようです
主よ わたしたちは揺さぶられ 力を失っています
主よ いつまでですか いつまでですか

けれども わたしたちは あなたの変わらぬ愛に拠り頼みます
あなたの恵みを わたしたちの歌とします
あなたは 朝ごとに 新しいあわれみをもたらしてくださいます
主よ いつまでですか いつまでですか

 

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詩編13は恐らく、ダビデがサウルに追われていた時の歌・祈りですから、イエスを待っているわけではありません。

 

しかし、「イエスがまた来られるのを待つ」というのは、私にとってはダビデの叫びに似た響きを持っていて、この歌にとても入り込むのです。

 

新約聖書に記される約束→”わたしのことば”は確かであるのに、自分が世の中で、日本で生きていくことを円滑にするために、表面的に「無理に信じる必要はない」かのように装ってうまくやってしまう自分自信への苦味。

 

神社や寺院、石像やら鳥居やら、そんなはっきりと目に見える偶像の事は気にもせず馴染んでいるのに、目には見えない神のこと、天のこと、ジーザスのことを語ればあからさまに拒否し、特に軽視・軽蔑するという、社会や人への苦味。

もう本当にしんどいものです。

だから私は、早くイエスに来てもらいたいと思っています。

 

その時、社会は大変なことになり、これまで世界が経験したことのない苦しみがやって来るようです。

住んでいる家、大事な家族、飼い犬、洋服や自動車、楽しみにしている趣味も、おいしい食べ物も奪われてしまうような時だと思います。

しかし、そんなことはどうでも良い、もしその苦しみで自分が死んでしまったとしても問題の無い方が来られる、天の扉がついに開かれる。

それは、もう悲しみで涙することもなく、競争する必要もない、焦る必要もない、葛藤もない、そして永遠の平安が始まる時です。

イエスを信じる者にとっては喜びのはじまりであり、信じない者にとっては、最低最悪の出来事となります。

 

なので、私はどうか、この方を信じてくださいと言いたいのです。

イエスを信じるとは、

自分が罪人であることを認めて、神にそのゆるしを願う=悔い改めることから始まります。

神は既に、イエスを十字架につけて私やあなたの代わりに刑罰を終えさせています。そのことが「私の罪のために死んでくださったんだ」ということを認めるということです。

つまり、ゆるされるかどうかわからないけど悔い改めてみるのではなく、ゆるされることを前提に悔い改めるのです。

神は絶対正義ですから、罪については必ず罰するお方です。

一方で、神は愛です。絶対の愛です。ご自身の正義を貫きながら愛のあらわれ→罪人を罰するのではなくゆるすための用意として、イエスが来られたということです。

この神の愛を受け取る、これがイエスを信じるということになります。

 

神による罪のゆるしは、一時的な安堵が与えられるというだけではなく、永遠のいのちが与えられるということです。

永遠のいのちというのは、今日のみことばでジーザスが言われている「わたしのことば」です。つまり、約束されているものなのです。永遠ですよ。

そして、永遠のいのちが与えらている=罪のゆるしと共に生きていくということは、信じた瞬間から、人生そのものに神が影響されるということでもあります。

神は、どのように生きてもらいたいかを一人一人に希望(計画)を持たれ、それに従って生きていく・生きようとすることが伴うからです。

永遠のいのちを約束してくださっているというのは、事故や病死しても永遠に生きることを約束してくださっているということです。それを約束してくださる人が求める生き方に従うのは、人として普通のことです。しかもその計画は、喜びをもたらす計画だとも言われているのですから。

イエスを信じていない人の価値観は、死んだら全部終わり、だから生きているうちに好きなことをしよう、楽しもう、かも知れません。しかし、イエスを信じることで永遠のいのちが与えられるのですから、死んでも終わりじゃない、永遠に生きるのだから、それを与えてくださる神をおそれ、神から離れずに生きよう、となります。

※私は、自分が神から離れることはあっても、神が自分から離れられることは無いと考えています。これはまだまだこれから知っていくところですが。

 

自分の正しさではなく、罪人であることを認めることから永遠の約束、永遠のいのちは与えられます。滝に打たれたり、何度も山を登ったりするのではなく、ただ信じることによって与えられるのですから、信じるべきだと私は思います。

また、信じることによって得られるものと、信じないことによって得られないものを比較することも鍵ではあります。