イランをめぐる情勢が緊迫しています。
米国とイスラエルによる軍事作戦は拡大の方向で、ハメネイの死亡が伝えられ、報復の連鎖の可能性が報じられています。
この状況の中で、米やイスラエルの行動を「当然だ」「正義だ」とする声が、クリスチャンの中から聞こえて来ています。
日本でも有名な牧師さんなどが、ソーシャルメディアを通じてそのような意見が述べられているのをいくつか確認しました。
また、それに呼応するように、クリスチャンらによる同軍事行動に対する支持で、盛り上がりの気配さえ感じるのです。
今朝、QTをしている際、ふとあることが語られた気がしました。
今日はマタイ20章の18節~28節でした。
イエスは弟子たちに、ご自身が十字架につけられて死ぬこと、そして復活することを語ります。
その最中に、弟子の親があらわれて、自分の息子2人は天で厚遇して欲しいと願いに来るのです。
弟子たちは、そのような願い事がなされたことに立腹します。
何に立腹したかと言うと、自分たちを差し置いてその息子2人が厚遇されるなんて...ということに、です。
彼らはこの事の前に、誰が弟子の中で一番か、というような、弟子ランキングに意識を向けていました。
イエスは、そのような弟子たちに対して、先のご自分の運命=十字架で死ぬことについて話をされたのですが、彼らは相変わらずランキングから離れることが出来なかったのです。
そして、そのような弟子たちにイエスは、冷徹に(私はそう感じました)語られます。
上に立ちたければ、下に仕えるようにしなさいと。
「メシヤのわたしでさえ、人々に仕えられるためではなく、みなに仕えるためにこの世に来たのです。そればかりか、多くの人の罪の代償として自分のいのちを与えるために来たのです。だからあなたがたも、わたしを見ならいなさい。」
この時、イエスが置かれた状況は、孤独であったと思います。
ご自身が「十字架で死ぬ」と宣言されているにも関わらず、弟子たちは相変わらず自分の序列の方に興味を示すのです。
これは言い換えるなら、既に、十字架へと続くイエスの受難、苦しみは始まっていたとも言えます。
イエスは神様ではないのか、神様は悲しむのか、と言われるかも知れませんが、イエスは人間でもありました。
人間であるからこそ、その身に人の罪の代価→苦しみを背負うことが出来ました。
私は各福音書を読むたびに、弟子たちにへの共感に浸ります。
ですから、この場面でも、もし自分が弟子たちの立場であったなら「仕方ないなあ」と考えるのです。
しかし、現実は違います。
私は聖書を通して、イエスによる福音となるみわざを全て知っており、この20章の状況も、未来を踏まえて俯瞰できるところにいるのです。
弟子への共感の後にはすぐ、イエスへの共感に変わらなくて、一体何の意味があるでしょうか。
意味とは、イエスの受難への共感です。
側近の弟子たちに背を向けられることへの苦しみ、孤独です。そして、イエスが受けてくださったこれらがゆえに、自分が救われていることをも噛みしめる時、それが今です。
同時に思い出されることがありました。
イエスがこの事よりも前に、弟子たちに言われた言葉「敵を愛せよ」です。
今まで多くの解釈などをあてにしてきましたが、そのほとんどが字義ではなく解釈に根差していました。
人間としては到底不可能な実践項目で、聖霊の力によってそうすることができる→無理に「敵を愛す」必要はない。
でした。
本当か?と思いました。
弟子たちがイエスの受難を理解できず、ランキングに夢中になったことを、人だからやむを得ない、と共感する構造と同じではないでしょうか。
この受難節。
福音を知り得る私に求められているのは、弟子たちではなくイエスへのフォーカスと共感への道のりです。
「敵を愛す」ことを無理難題と決めつけるのではなく、文字通り受け取り行動することが求められていると思いました。
だから、このような事をブログに上げているのです。
同じクリスチャンに対して、あれこれ言う資格はありません。
私は私と神様との関係において、イラン情勢への意見を持ちたいと思っています。
少なくとも、私に関する限り、イエスは「敵を愛せよ」と弟子たちに言われている限りにおいて、私は相手がイランであろうがイスラム教徒であろうが、積極的に破壊に走ることは神の御心ではないと考えています。
そして、クリスチャンにフォーカスするよりも、神そのお方、イエスそのお方に焦点を当て続けることに今は専念したいと思います。
それが、国ではなく、天に籍を持つものの責任であると思うからです。
天に籍を持つことがわかることは、マタイ20章の弟子たちとは情報で大きな差があります。
その中で最も重要な情報は、人の救いは、神様と人との関係性によって人に一方的に与えられるもの、ということです。
だからイエスを信じ、救われた人は、関係性によって神を見分けることが出来ます。
その上で、神の御心を追い求めていきたいのです。