18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。

19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。

20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。

21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。

23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。

25 ところが、人々が眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。

26 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。

27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』

28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』

29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。

30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

 

昨日のQTで、自分は”弟子側”だと思ったが、今日のイエスによる解説では、岩地といばらの要素があることがわかる。

試練でつまづくし、世の心づかいと富で実践に乏しくなるというのは、否定できない。

つまり、何が問題かを鮮明にイエスは指摘されているのだと受け取ることができた。

 

・従うことに付随する代償(のようなもの)に恐れること

・仕事とか金を優先してしまう順序立て

 

これ、10年くらい前も言ってた気がする。いつまでもおれはやってんなあ、と思う。落胆もあるけど、そういう自分であることを浮き彫りにされながら、一歩ずついくしかないのだろう。

幸いなことは、家内がクリスチャンであることだ。これはもう、神があわれんでくださっていることの表れだと思う。

 

毒麦については、わからないようでわかる。

自分が毒麦であるという風には思えないのだが、成長してみないとわからない。

そして、毒麦だとしても、まだ看過されている段階だと言える。

しかし、良麦だとしてもそれは同じ。だから、私には何とも言えない。

 

だから、抜かれていないのだろうけど、じゃあ、毒麦から良麦になる可能性ってあるのかな、などと思った。

イエスの言われている毒麦とはまた違う毒麦を想像してのことだ。私はあると思う。

抜かれないうちに良い麦に変わろうと、いや変えてもらおうとするなら、その麦を抜く権限をお持ちの方は、変えてくださるだろう。

まあそれは、確かに、イエスが言われている毒麦とは違う。

 

今日の適用は、一つ、代償に恐れない従順だ。

実のところ、代償は錯覚であるケースが多い。恐れる必要のないものを恐れているケースが多いということだ。

確率で恐れる、とも言えるが、それを少しだけ突破しようと思う。