20 それから、イエスは、数々の力あるわざの行われた町々が悔い改めなかったので、責め始められた。
21 「ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもツロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。
22 しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。
23 カペナウム。どうしておまえが天にあげられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
24 しかし、そのソドムの地のほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえよりは罰が軽いのだ。」
25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
福音書を読む時に、そのリアリティを確かにするために、一つ一つの出来事を「まだイエス様が十字架にかかる前」ということを意識して読む。
こうすることで、いかに自分がめぐみの時代に生き、イエスを必要としているかを確かめることになるからだ。
ただ今日の、コラジン、ベッサイダ、カペナウムのことについて読む時、ここをよりリアルに捉えようとするなら、今の自分の状態にそのままあてはめるべきだと思った。
奇跡を見たのに悔い改めなかった。というのは、今を生きる私、クリスチャンに、とても近い状態だと思うからだ。
悔い改めというのは、一度やったらそれで完了ということではないはずだ。
神の前で悔い改めたものは、それからこの世の中で生きていく上で、常時の悔い改めが湧き出てくることになる。
それは、やまない後悔ではなく、神の御前に出続けるということであり、これなくして神との関係は維持できないと私は思う。
コラジン~カペナウムは、奇跡を受け止めたものの、霊的に反応しなかったことをイエスは激しい罪であると糾弾した。つまり、そのことが、私、現代のクリスチャンに対する投げかけそのものであると思う。イエスが既に十字架にかかられ、復活で証明されているのにも関わらず、御前に出ない、悔い改めない、というのは、ソドムやシドンよりも重罪であるということだ。
もう一つ言い換えてみると自分でははっきりしたのだが、「赦される」とわかっているのに「赦しを乞わない=悔い改めない」ということだ。
このことは、私の今のステイタスにそのままあてはまることだ。自分を腐らせて御前に出よということになる。
そして、そのシンプルさをイエスはついに至言で説明されている。
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
ええ!?と言いたくなるようなことばではないか。コラジン~カペナウムを糾弾された後に言われている。
私はこのことを深く受け止める。”光”に応答しなかった者に対して、これほどもやさしい言葉は無いのではないか。
イエスはご自分を「へりくだっている」「心優しい」と言われる。この招きは、実のところとんでもなくハードルが下げられているのだと思う。聖書の中で、最も優しいことばではないか。
「じゃあいきます」それだけが応答のはずだ。