34 わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。

35 なぜなら、わたしは人をその父に、娘をその母に、嫁をそのしゅうとめに逆らわせるために来たからです。

36 さらに、家族の者がその人の敵となります。

37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

38 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

39 自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします。

40 あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。

41 預言者を預言者だというので受け入れる者は、預言者の受ける報いを受けます。また、義人を義人だということで受け入れる者は、義人の受ける報いを受けます。

42 わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。

 

まあ今日も色々なことが頭をかけめぐって、自分のケースにあわせて、あれはよかったとかだめだったとかも考えた。

 

イエスは確かに、分裂をもたらすなあ。つい先日は、仲良くしていた友人に、福音についての詳しめの話と、私がどれほどイエスを信じている(信じたいと思っている)かを話したところ、急激に距離が出来たなど、ある。

でもそれ、仕方ない。私は友人の事は大事だけれど、それよりも大事なものがあるということだ。友人への愛、家族への愛、恋愛、それらは社会常識的な順序立てで、ある程度は共有できるけれど、ここに割って入るどころか、圧倒的に優先順位の愛として来るのが、イエスであり、神への愛なのだから、どうしようもない。根本的なものだ。

神への愛と家族愛などが両立しないのではない。順番が変わるからその社会常識的な順序立てを破ることで、分裂が起きるのだ。

イエスはそのために来られた、と言われているのは、今の社会の様子を見てみると、なるほどその通りになっていることがわかる。

 

今日のみことばからは「小さい者たちに水一杯」の実践だ。

身近なところにいる、伝道者や宣教者に、水一杯。献金でもよいだろうし、声をかけるのもよいだろう。この分裂のはざまを進んで住処とする人たちに対して、少しでもねぎらいと休息を。