38 『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょにニミリオン行きなさい。
42 求める者には与え、借りようとする者は断らないようにしなさい。
43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。
47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。
48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。
聖書で最も有名な箇所の一つ。
右の頬を叩かれたら左の頬も出せ、なんて、到底従えることが出来ないことをイエスは言われるのだがこの意味は・・・・と、”文字通りそのようにせよということではないんだよ”という解説を山のように読んだり聞いたりした。
あらためて読み返してみると、天の父の完全があらわれているところを表現されているところと捉えることが出来るが、これは、5章に入ってからの概ね全般にも言えることではないか。
自分に対して敵対したり迫害したり、或いは何かを奪おうと近づく者に対しての態度に、神の完全さは例えばこのようにあらわれると説明されながら、そのようであれと言われている。
神の完全とは、律法を守ったり、今でもユダヤ教で運用されるオーラルトーラーを完全に守ることによって完全になれるのではなく、それを遥かに超える神そのお方の完全でありなさいと言われている、それであまり間違いはないと思っている。
48節は、とても重要な聖句だ。
右の頬を叩かれたら左の頬も出せ、なのだが、私はこれは、ストイックになるのでもなく、もちろん自己義認に走るのでもなく、そうあるべき具体的事例だと考えている。
ここは、クリスチャンになってからの心境変化なのか、聖霊の導きであるのか、正直わからないのだが、叩かれたいわけではないけれど、暴力でやり返すくらいなら、もう一発食らった方がましだと思うようになってしまっているところがあるのだ。
私は昔の職業や競技経験から残るセンスや、今でも実施しているトレーニングによって、世の中の多くの人より腕っぷしも強いし人を破壊する技術がある。だから、感情まかせにやり返せば、大体はぶちのめすことが出来る。そういう経験もある。
しかし、そういうのはもう嫌だと思わせるような、感情にも勝る指向性のようなものが存在している。それは一種の恐れでもある。
もちろん、命が危ぶまれたり、同行者にも危険が及ぶ場合にはそうはいかないだろうし、感情が爆発することもあるのだろうが、神の完全さは、そういうところに現れてそのようにあれとイエスが言われるのであれば、少なくとも向く方向はそちらで間違いないのだと私は思っている。
「実現不可能な努力目標」と言う表現をどこかの牧師さんがされていたが、少なくとも、実現不可能だと最初からなめてかかるようなそういう表現は、絶対に慎むべきで、そういう方向に実際に歩いているということは自覚しておくべきだと思う。
そして、それを実現可能とさせるのは、そんな実現の可・不可を断じる心ではなく、あくまでもめぐみによって与えられる神の力であり、自発的なものがあるとしたら、それは神への想いでしかないと思う。
もう一つは、敵を愛する、ということだが、これについても今回はとてもスムーズに私に浸透してくれているのだが、これも神の完全さが現れているところであると今は思える。
それは、神の完全さが、律法厳守的正義によってなされるというよりも、全てを愛されることによって成立している構成要素のようなものなのだなあ、と。
はっきりとはしないけれど、敵を愛する、という尋常ではない愛は、前述の暴力によってやり返さないを更に上回っていく、”尚且つ”要素だと捉えることができる。
やり返さないどころか愛する!?さすがにこれは、実現不可能な・・・という感覚が出て来てしまって、あの牧師さんのその表現に頷かざるを得ないところだ。
しかしこれもまた、ただ神の完全さの説明であって実際にそのようにしろ、とイエスは言っておられるのではないよ、などという解釈はちょっとしんどいと思う。
そこに向かっているという自覚を促すこと、そうすれば、そのようにあれるようにという祈りが出てくるのだろうなあ、と思えてくる。
自分の義、自分の意思、自分の努力だけでは、どうにもならない場面なのだ。
黙示録には、天とはどのようなところかを幾分教えてくれる。
それはまず、”神が涙をぬぐってくださる。”
そして、”死・悲しみ・苦しみがない。”
なぜなら、”以前のものがもはや過ぎ去ったから。”
という説明だ。
さてそれが、何か天使のように草原を駆け回るような風景に、笑い声ばかりが聞こえる世界なのか、もう物質的な現状概念を超えた特殊な次元の世界がそこにはあるのか、まだまだ私にはわからない。
イエスが人として来てくださったように、人の世界として表現するならそのように言われているのかも知れないなあ、などと勘繰ったりもする。
ただいずれにしても、自分が害そうとする敵そのものがいないところであり、殴られもしないところへと至るというのは間違いない。
神の完全は、やがてそのような形でもたらしてくださること、そこに向かってるということを、強く思わせてくださるところなのだなあ、とも今日は思った。人間なりの不安定な根性・努力で勝ち取れるようなチープなものではない、ということだ。
私は今日、とても難しいけれど、敵を愛そうと”努力”してみようと思う。
敵を探すのは簡単だ。殴りかかってくる者ではなくとも、商売ガタキもいれば、会社の中でいつも反抗してくるやつもいる。
それらに対して、押し返したりつっぱねたり、やっつけてしまったりするのではなく、言いなりにはならないけれども敵対はしない、という態度で接してみてはどうかと思う。まあこの辺の加減というのは、実際に取り組んでみないとわからないものだから、その取り組みの中で神が示してくださることを求めてみよう。