11 私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

12 手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

13 さて、イエスは、ヨハネからバプテスマを受けるために、ガリラヤからヨルダンにお着きになり、ヨハネのところに来られた。

14 しかし、ヨハネはイエスにそうさせまいとして、言った。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか。」

15 ところが、イエスは答えて言われた。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです。」そこで、ヨハネは承知した。

16 こうして、イエスはバプテスマを受けて、すぐに水から上がられた。すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。

17 また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」

 

無罪であるイエスが、どうして水の洗礼を受けられたのかについては、いくつかの解釈を聞いたことがあるが、私が今日、あらためてこの”不思議”をたどってまず思いついたのは、ちょっと稚拙なものだ。

 

小学校5年生と6年生の時の担任の先生は、給食の時間に必ず生徒のグループの中に入って一緒に給食を食べた。

背の高い男の先生で、体もごつごつとしていたが、不釣り合いな小学生が座る机と椅子に座って、小学生が食べる給食を一緒に食べるのだ。明らかに窮屈そうだった。

そして、給食が終わるとグランウンドに出て一緒にドッジボールをする。でかい大人が投げるボールは脅威そのものだった。

昼休みが終わると掃除の時間になるが、ここでもこの先生は一緒に掃除をした。

厳しさのある先生だったので友達感覚とはいかなかったが、子供なりにその先生の意図を感じていた。児童と同じ目線に立とうとしているということだ。

 

無罪のイエスが同じだとは、当然、言わないのだが、事実、無実の方が罪を洗い流すことを象徴するバプテスマを受けられたというのは、似た意味合いを感じる。無罪の方に不釣り合いな儀式を進んで受けられたのだから。

 

だから、このイエスがバプテスマを受けられたことの意図は、一つは、イエスから言わば”下々”であるわれわれ人への近づきがあらわれたもの、とも言えるのではと思った。

 

そして、もう一つは模範を示されたということだ。それは、バプテスマを受けよ、という模範でもあると私は思うが、更に、既に洗礼を受けてクリスチャンである私としては、また違う角度からの感覚を受けている。

それは、罪人への近づきという模範だ。罪が洗い流されるに至った者は、罪がある者に近づく、いや、同じところに立つという模範かも知れない。もちろん、自分の弱さを思えば、これは少々怖いことでもある。しかし、イエスがこれから罪人たちとの日々を歩まれたことを模範として、少なくとも逃げることなくしっかり近づいて歩けと言われている気がする。

そこには、救いへのみちびき、福音を伝えることを目的としていれば、間違いないと私は思う。これまでのところの経験上は。

 

今日、このみことばからメッセージとして受け取るのは、そういう罪の所在に恐れるな、ということだ。

今、自分が置かれているところは、本当にもう「またか」という嫌気がさすような状況だ。しかし、神がイエスを「わたしの愛する子」と言われたその言葉は、私に対する言葉でもあることを覚えて、恐れず、敢然と進むべきだということだ。

 

教会というのは本当にシェルターで、そこでなされることにのみエンゲージしておけば、あとはもう大丈夫という気分にはなる。

しかし私にとってそれが、世から逃げることになってしまってはいけないよということだと思う。

世に対峙するのでもなく、恐れるのでもなく、同じ地面に立つこと。

ヨシュア率いるイスラエルのカナン征圧に際して、みつかいは「あなたの履物を脱げ」と言われたが、これに少し関係してくるとも思う。