1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。
2 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」
4 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蛮であった。
5 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、
6 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。
7 しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。
8 それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。
9 『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない。あなたがたに言っておくが、神はこの石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。
10 斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
バプテスマのヨハネについて、たくさんの考えが思い浮かんだが、今日、自分にとって大事なのは、悔い改めにふさわしい実、だと思った。
悔い改めは、これそのものが、私には神が必要と宣言しているようなものだが、もしこれを慣例事項として行うなら、全く意味が無い。
ヨハネは、サドカイ人やパリサイ人に対して言っているが、これは今も昔も誰にとって変わらないことだ。
ヨハネがそれをあえて彼らに言ったのは、この後に来るイエスを信じよということだったのだろう。
しかし、多くのサドカイ人もパリサイ人も、イエスを否み続けたし、ユダヤ社会全体が「イエスを十字架に」と叫ぶことになったわけだ。
少し情緒的な考えから思うことなのだが、では、ここで洗礼を受けたサドカイ人やパリサイ人は、イエスが十字架にかかられて上げられてからも含めて、イエスを信じるようになったかどうか、ということだ。
サドカイ人はわからないが、パリサイ人では少なくともニコデモはまさにCHOSENであったし、パウロはApostleとなった。他にも、大勢が起こされたことを信じたい。
特にニコデモが辿った足跡というのは興味深いが、神への転換、神への従順によって、実を結んだわかりやすい例であるように思う。
実を結ぶ、というのは、心の中で起こることではないと思う。
実際に目に見える何かよいものが起こってくるということだ。
今日、昨日とは違う、更に神に転換した態度とか行動で示すことが大事ではないか。
何か一つ、実を結ぶ一日にしたい。