1 イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。
2 私たちが神を愛してその命令を守るなら、そのことによって、私たちが神の子どもたちを愛していることがわかります。
3 神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。
4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
6 このイエス・キリストは、水と血とによって来られた方です。ただ水によってだけでなく、水と血によって来られたのです。そして、あかしをする方は御霊です。御霊は真理だからです。
7 あかしするものが三つあります。
8 御霊と水と血です。この三つが一つとなるのです。
9 もし、私たちが人間のあかしを受け入れるなら、神のあかしはそれにまさるものです。御子についてあかしされたことが神のあかしだからです。
10 神の御子を信じる者は、このあかしを自分の心の中に持っています。神を信じない者は、神を偽り者とするのです。神が御子についてあかしされたことを信じないからです。
11 そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。
12 御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。
神に従うことは重荷にならない
これはすごく真っ芯を突いているところ
何が重荷になるのかと言えば
この世での人間との関係性とか風習とか
そういうものが重荷となる
私の場合
これに勝つ→イエスは勝たれた完了を見せてくださっているが、私はまだ勝っていない、これから勝つ、勝たせてくださる
ここに希望がある
自分で言えば拙い話にしかならないが、永遠のいのちが与えられているということは、永遠のいのちを持たない者にはもう勝っている
いつか振り返った時、あの時の恥ずかしさや悲しさとか、何かに耐えていたことが、全て神が与えたプロセスであることを知るのだろうと思う
今はそれがいまひとつわからないが、その振り返る時こそここで言う”いのち”が発揮されている時なのだろう
しかし一方で思う
勝つことに焦点を当てるのは、何か苦しみや憎しみや敵対の方向に目を向け続けることではなく、むしろ神が与えてくださっためぐみ、これからもっと与えられるめぐみの方に目を向けて、感謝であったり、賛美であったり、祈りであったり、つまり礼拝という形でこそ前進していけるのだろうと
だから、この神ではないものによる支配が看過されている地で、何を見て生きるかは重要なことだろう
国際的に不穏なニュースが続いている昨今、イエスが弟子たちに教えられたことは、そのままこの世への挑戦状のようなものにさえ見える
世の状態を見てそれらを行うというのではなく、イエスを見上げてそれらを行うことが、唯一、遂行可能な方法だ
ペテロは、イエスに習って水面上を一瞬歩いたのに、逆巻く波を見て沈んでしまった
沈んでしまうことを恐れるのではなく、そんな重荷を恐れるのではなく、ただイエスだけを見て生きていれば、おのずと勝利(もうこれはいわゆる勝ち負けのようなものではない圧倒的なものだが)がもたらされるのだろうと、今日は思った