25 それでヨシュアは、その日、民と契約を結び、シェケムで、おきてと定めを定めた。
26 ヨシュアは、これらのことばを神の律法の書にしるし、大きな石を取って、主の聖所にある樫の木の下に、それを立てた。
27 そして、ヨシュアはすべての民に言った。「見よ。この石は、私たちに証拠となる。この石は、主が私たちに語られたすべてのことばを聞いたからである。あなたがたが自分の神を否むことがないように、この石は、あなたがたに証拠となる。」
28 こうしてヨシュアは、民をそれぞれ自分の相続地に送り出した。
29 これらのことの後、主のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
30 人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。
31 イスラエルは、ヨシュアの生きている間、また、ヨシュアのあとまで生き残って、主がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。
32 イスラエル人がエジプトから携え上ったヨセフの骨は、シェケムの地に、すなわちヤコブが百ケシタでシェケムの父ハモルの子らから買い取った野の一画に、葬った。そのとき、そこはヨセフ族の相続地となっていた。
33 アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。
南部バプテストの解説を参考にしたのだが、印象的なところがあった。
ヨシュアは民を相続地に返した、とあるが、ここだ。
信仰は、集会で生きるのではなく、それぞれが割り当てられた場所で生きる。
そういう意味合いが込められているのだと。
これは、教会での集会の時ではなく日常生活において信仰者たれ、と捉えて間違いはない。
そして、このみことばのレスポンスの如くあるみことばがその後に。
それぞれの地に帰ったヨシュア世代の民が生きている間は、神に仕えたのだと。
言い換えれば、そう長い間この更新された(念を押された、と言い換え出来るか)律法が守られたわけではない、ということ。
今年の秋まで参加していた海外の教会で学ばされたことが、今日、またよみがえってきた。
それは、継承することの重要さと難しさだ。
ヨシュア世代は、その記憶によって信仰を保つことが出来ていたと言えるが、その記憶が無い次の世代(士師記へと続いていく世代)では早速神への背きが始まった。
私は、ここに律法そのものではなく、律法に生きる世代の信仰の限界と、イエスが来られたことの必然性を感じ取ることが出来る。制度だけではだめなのだ。
その上で、今日の最初のチャレンジに帰ると、相続地で何をすべきなのかが少しずつわかってくる。
教会で何をするか、ではなく、日常生活で何をするのか、だ。
地面の相続=継承が本質ではない、信仰を継承していくこと。
極端すぎる表現になるが、私はそれが全てなのではないか、とさえ思う。
人が生きる意味は、財産ではなく、神を信じるということそのもの、神そのものを誰かに渡して生きていくことなのではないかと。
今年の締めくくりに示されているチャレンジは、来年すべきことへの伏線だ。
色々な社会での面倒なこととか、楽しいことも嬉しいことも期待することもある。
しかし、一番大事なことであり、全ての解決と良いことへのガイドは、この神を継承していくことに集約されていると考えたい。来年はよりはっきりとそういう日常の実践で生きたいと思う。
冒険の年の最後に、意外なみことばから霊的にみちびかれて締めくくれたことを感謝します。