27 ただし、イスラエルは、その町の家畜と分捕り物を、主がヨシュアに命じたことばのとおり、自分たちの戦利品として取った。
28 こうして、ヨシュアはアイを焼いて、永久に荒れ果てた丘とした。今日もそのままである。
29 ヨシュアはアイの王を、夕方まで木にかけてさらし、日の入るころ、命じて、その死体を木から降ろし、町の門の入口に投げ、その上に大きな、石くれの山を積み上げさせた。今日もそのままである。
30 それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。
31 それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。
32 その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。
33 全イスラエルは、その長老、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者もどうように、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。
34 それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。
35 モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことば、一つもなかった。
人権とか人は皆平等という現代的な背景感を持ってこのアイの王の処刑について読むと、無残で残酷な刑にしか思えません。
ヨシュアは神への従い→律法遵守を貫く中でこれを実行したのですから、ではこの神は残酷なお方なのか、神の善→Goodnessとは相反しているのではないか、という考えが浮かぶのは、私は無理もないと思います。
しかしそれは、人間の目から見て残酷であったとしても、罪への裁きと報いの絶対性(不可避)を現わしている、神の正義あらわれであり、同時に善そのものでもあると私は捉えることができます。
アイの王の罪は、要するに、カナンの罪であり、カナンの罪とは偶像礼拝による乳児虐殺、乱交、呪術などの肯定というところがあります。
また、神がイスラエルを通してなされた戦績などの奇跡をラハブは恐れたのですが、アイの王はむしろ積極的に敵意の無いイスラエルを攻撃しました。
特に、エリコ陥落は、その象徴的な出来事であるのに、神に立ち向かいました。
ここに、信仰の上でも、律法という法の上にも、反逆者となったのがアイの王です。
そして、その罪に対して厳然とした対処が行われました。
では、これは誰にとってこの神の対処は善なのでしょうか。
結論的には、ヒトにとって善です。
なぜなら、罪なき状態によって、つまり律法が完璧に全うされることによって、神はそのヒトをご自分のところに引き入れて永遠に住まわされるからです。
ヒトは、その神の罪への対処が厳しいから罪をおかさなくなるのでしょうか。
そういう要素はあると思います。旧約聖書のこの時点で、私がもし生きていたなら、そういう恐怖が先だったと思います。
しかし、イエスが既に来られた今、はっきりとしていることは、神は恐怖政治の親玉ではなく、やはり善であり、愛であられるということです。
アイの王への裁きは、ヒト全体への愛の大きさであったことが心に染みてくるのは、神は自分の子であるイエスをも木にかけられたからです。
イエスには罪はありませんでしたが、イエスご自身以外の者の罪のために、残酷に見える厳罰をイエスに振り下ろされたわけです。
誰のためですか、私のため、ヒト全体のためです。
だから救われんです。あのイエスの十字架が、人道に基いた毒殺刑であったなら、私たちが救われることはありませんでした。
それと同じで、アイの王に対して、死罪はかんべんしといてやろう、では、罪の裁きにならないのです。
ひとりごをつかわし、神はわたしたちに、いのちを得させてくださいました。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し御子を使わされた。
ここに愛がある。神の愛は示された。ここに愛がある。神は愛なり。
これは1ヨハネ4のみことばを取り出した讃美歌の歌詞です。
私はこの讃美歌によって、このみことばを覚えているのですが、まさにこれです。
罪は捨ておられないという神の愛が、アイの王への残酷な対処にもあらわれていることを覚えました。
今日のみことばからは、自分の考えを捨てる、ということがヒットしました。
というのは、ヨシュアは徹底的に従う姿勢を貫きなおしているからです。
ヨシュアがどう考えたかではなく、神がどのように示しておられるかで、物事を進める必要あります。
そこに善さGoodnessは必ずあります。