8 ふたりの人がまだ寝ないうちに、彼女は屋上の彼らのところに上って来て、
9 その人たちに言った。「主がこの地をあなたがたに与えておられること、私たちはあなたがたのことで恐怖に襲われており、この地の住民もみな、あなたがたのことで震えおののいていることを、私は知っているます。
10 あなたがたがエジプトから出て来られたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと、また、あなたがたがヨルダン川の向こう側にいたエモリ人のふたりの王シホンとオグにされたこと、彼らを聖絶したことを、私たちは聞いているからです。
11 私たちは、それを聞いたとき、あなたがたのために、心がしなえて、もうだれにも、勇気がなくなってしまいました。あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです。
12 どうか、私があなたがたに真実を尽くしたように、あなたがたもまた私の父の家に真実を尽くすと、今、主にかけて私に誓ってください。そして、私に確かな証拠を下さい。
13 私の父、母、兄弟、姉妹、また、すべて彼らに属する者を生かし、私たちのいのちを死から救い出してください。」

14 その人たちは、彼女に言った。「あなたがたが、私たちのこのことをしゃべらなければ、私たちはいのちにかけて誓おう。主が私たちにこの地を与えてくださるとき、私たちはあなたに真実と誠実を尽くそう。」

 

ラハブの信仰の本質がここに記されていますね。

彼女は「心がしなえて勇気がなくなった」と言っていますから、神の怖さを強烈に受け取りました。

「神は怖くて恐ろしい方なのか」「そのような神を信じるのか」、という考えが出て来そうですが、私はこれこそが神の存在そのものを認めず、概念でのみ捉えて議論に走るという”侮り”の現れだと思います。そして、その概念とか精神世界的な神の捉え方が罪の所在でもある気がします。

 

ラハブはそうではなく、神を存在で捉えたからこそ、真剣に怖がっていました。

海を分けるという人の想像を絶する力、正規軍ではない弱いイスラエルの軍隊に強力な王国を完全に絶滅させるほどの神の力、これに恐れおののいたのです。

 

そして、そのイスラエルの斥候たちがいよいよエリコの地にやってきているのですから、彼女は相当怖かったことでしょう。

しかし、その時にあらわれているのが、彼女の恐れでは終わらない神への信仰です。

その神の力にすがろうとしていた、というと少し違うように思います。

当時の支配体制のエリコではなく神の主権側に付こうとしていた、のだと思います。

 

私はこのラハブの心模様を深く追い求めることが出来た今日のQTは、本当に実りの多いものだと思います。

というのは、ラハブのこの信仰のプロセスやあり方は、まさにこの現世界で生きている私自身の信仰に対する”助け”に満ちていると思うからです。

 

イエスは「見ないで信じる者は幸いです。」と言われました。

ラハブの”恐れ”の理由は「聞いているから」と彼女が言うように、聞いて恐れたことが信仰の始まりでした。

しかし、こうして斥候がやってきて、その神の集団であるイスラエルが間近に迫ったことが、いよいよ恐れで止まらずにもう一歩前進する行動の信仰へと彼女を進ませたと言えないでしょうか。

 

神は、現状の信仰の形がどうであれ、私の信仰が強さとか弱さとかがどうあっても、神を概念で捉えずに存在で捉える者を、行動にあらわしてくださるお方であることを信じます。これが証となって用いられることになります。

 

そして、今日もこの信仰の鍛錬の一つは私にやってくるでしょうから、私が所属する天の者として、それに応答していくことが最善になります。