1 神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、

2 愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。

3 私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。

4 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。

5 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。

6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください

7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

8 ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください

 

日本のクリスチャン人口は、全人口の1%程度と言われます。

1%というのは、言い換えると計測不可であり、宗教的マイノリティの1つなのだと言えます。

 

これは本当なのかな、と思ったことがあります。

というのは、マイノリティの割に、キリスト教精神に則った・・・とする幼稚園から大学まで、日本国内にはたくさんありますよね。

 

上智大学、青山学院、国際基督教大学、立教大学、関西学院、同志社大学などは有名どころです。

 

クリスチャンを洗礼を受けた人と定義するなら、それは確かに人口的にはマイノリティなのですが、知名度はもちろん社会に与えている影響というのは、現在進行形でかなり高いと言えます。

別の角度から言うと、クリスチャンはもっと多くてもおかしくないはずなのです。

 

実際、神は良いお方です。

私の人生は、この方を信じて変わりました。たった13年前のことです。

聖書にも書いていないし、信仰とは違うアプローチなのですが、「試しに信じてみてください」と言いたいです。

試しに信じる、は、厳密に言えば言葉として成立しないことですが、「試しに、福音を聞いて、信じてみてください」と言い換えることは出来るかも知れません。

 

今まで生きてきて、本心で大きな後悔もなく、ああ良い人生だと心底言える方には、私はこのアプローチは通用しないと思います。

”渇いている”という現実感に乏しいからです。本当は霊的にはひからびているのですが、その気づきが無いのです。

 

何か大きな失敗をしてしまったとか、もう人生を投げだしてしまいたいとか、つらい、悲しい、という人に「試しに・・・」をおすすめします。

それは、私自身がそのような状態から神の守りに入った実感も成果もわかっているからです。

 

私は「試しに・・・」でした。

どんな心の様子だったかと言うと、自分には合わない乱暴な金儲けなどもうしたくない、金が欲しいのではなく毎日安心して朝を迎えて夜は安心して眠りにつけるようになりたい、陰でこそこそ何かをして生きるのではなくて正々堂々と生きたい・・・という感じです。

何か自分の人生に細工をして、人目につかないように汚いことをして金儲けしながら生きるのがもう嫌になったんです。

もちろんこれは、自業自得です。私が決めたことを実行した結果そのような生き方になっていきましたから。努力すべきことを怠ったり、通るべき道を通らずに近道ばかりしたり、そういう地道に歩く人をあざ笑ったりもしましたし、ある時にはそういう自分のことに満足していました。

しかし、もう嫌になったのです。その言わば”わるさ”に失敗して、追いつめられてしまうような状況になって、はじめて嫌になりました。

 

自業自得に加えて、かなり自分勝手です。

良い時はでかい顔していたのに、だめになったら被害者ヅラか、と言われなくもないです。

そしてかっこ悪いです。自分でそれを挽回しようとするのではなく、宗教に頼るんかい、と。

それは、その通りです。私は宗教に頼ることで、その精神的にかさかさに乾いた状態を潤そうとしたのかも知れません。

「もう嫌だ」「誰か助けて」という精神状態であったし、未来を見るなら、「美しく生きたい」と思ったのでしょう。

だから「試しに・・・」となったのです。自分ではあまりに身勝手すぎて、あまりにかっこ悪すぎて、出来ない事を神に信託したのです。試しに。

 

しかし、その「試しに・・・」は、ある出来事を通して、確信に変わりました。

信じてみて、から、2か月後に起こったことですが、そこでお試しは完全に終わりました。

それからの今日までの人生をさっと振り返ってみると、イエスの犠牲によってもたらされた神の赦しの力は、明らかに私の人生の動きそのものに”介入的”に影響を与えていると言わざるを得ません。イエスが私の人生に入っておられます。

自分の力、意思とは別個の力によるレールをただ歩いた気さえしますね。それほど、自分の足で歩いた感の薄いものです。

 

良い事ばかりのバラ色の人生がはじまったのかと言えば、そうではありませんでした。

厳しいことがいくつかありました。しかし、そういう厳しい期間を経て、道がならされていっているとわかってきています。

そして、まだまだ厳しいことがあると思いますが、いよいよ本当に神を信じて神の力に頼っている限り、その厳しさが悲しみや虚しさで終わらないことを経験的にわかってきてもいます。

 

イエスはこのように言われています。

「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

すたすたと進んでイエスのところに行けたらよいのですが、試しにいってみるでも良いと思います。

イエスと言うのは、あの同志社とか青学とかが理念・方針に掲げているキリスト教のキリストその方です。

 

また聖書はこのようなことも語っています。

ナアマンという昔のシリアで将軍の地位にあった人は、自身にあった病(重篤な皮膚疾患)に悩まされていました。

彼は、神(神の預言者を通して)からヨルダン川に体を浸せば良くなると言われたのですが、「そんなわけない、あほらしい」と言って怒ったのです。

しかし、ナアマン将軍に仕えていた信仰ある者が「(川に入ることが)簡単なことだからやらないのですか、やってみたらどうですか」と勧めました。

ナアマンは納得したのか、それで川に体を浸してみたところ、その病は癒されました。そして、神を信じました。

 

「試しに・・・」から、神を経験することは多いのかも知れません。

もちろん、その経験がすぐの場合もあれば、時間を要す場合もあるし、衝撃的な事もあれば、じわじわと経験していくこともあるはずです。

いずれにしても、宗教サークルに入って同じ価値観の人と頷き合うのではなく、遅かれ早かれ神を経験することになります。

 

また言うのですが、関学も同志社も、その「試しに・・・」のために設立されたようなものです。社会的認知以上に、一定の信頼を得ているような大学が掲げているのですから、一定の信頼を置いてください。と言いたいです。

 

パウロは、キリスト教迫害者から、一転、超一転して、キリスト教伝道者の最も有力な存在となり、その軌跡が聖書になりました。

テモテはそのパウロに「子」と言わしめるほど、パウロにとっては言わば一番弟子です。

そのパウロへの申し伝えがこのテモテの手紙ですが、私はこれを今深く読むことになったのには理由があると考えています。

 

”神が私たちに与えてくださったのは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みの霊です”

力、愛、慎み。力は聖霊が与えてくださる力、愛は誰かを裁くのではなく赦す愛、慎みは自分を高めない思慮深い言動。この力と愛と慎みをもって、主をおあかしすることが私の人生になるように。