16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。

17 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。

18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに上る。

19 これが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。

20 その日、馬の鈴の上には、「主への聖なるもの」と刻まれ、主の宮の中のなべは、祭壇の前の鉢のようになる。

21 エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。

 

ゼカリヤ書はこれで終わりですが、この書をしっかりと読めたことを嬉しく思います。

今まで読んだことはあったけれど、深く嚙みしめたことはなかったし、色々な解釈も知りませんでした。

 

聖書預言について私は、予言的性格にあまりにフォーカスし過ぎていたかも知れません。

それは、ノストラダムスのあのエンターテインメントの影響を受けているのだろうなあと感じていますが、未来に起こる出来事を言い当てるというものです。

 

預言は確かにそういうものも含まれていますが、大事なことは、例えばこのゼカリヤ預言は、未来とか過去とかの時間的な概念を超えて、今、今日、神が伝えておられるということ、私自身に語られているということを受け取らなけれならないということです。

それは、聖書全体を通して言えることで、霊的に受け取っていくということではないかなと思いました。

 

ゼカリヤ書の結語にあたる今日のみことばは、まさにそれを感じます。

この書に一貫するメッセージは、エルサレムの話です。

子供の頃、西遊記という漫画のエンディングでゴダイゴが歌う「ガンダーラ」という歌がとても印象的で、よく友達などと口ずさんだりしていました。

その一節に

「その国の名はガンダーラ、どこかにあるユートピア、どうしたら行けるのだろう、教えて欲しい」

というものがあります。

私は何か、エルサレムに対して、そのような総本山的な見立てを持っていたかも知れません。あこがれ、夢、そんなものに近いような。

 

しかしエルサレムは、神がこのゼカリヤと通して語られるエルサレムは、既に霊的には来ているということを、まさに霊的に受け取るところだと思ったのです。

この辺は、言葉で整理し切ることは難しいですが、そういう鍛錬を仕向けられているように感じています。

 

そういう既に霊的には来ているエルサレムとは、このゼカリヤ書を通しては、教会のようであり、幕屋のようでもあります。聖所とまとめることも出来ます。

黙示録で語られるように、具体的には(これは時間的に未来)、新しいエルサレムが下りてきます。

 

これを待つために、霊的に来ているエルサレムに身を置けと言われているような、そんな神からのメッセージであるようにも思えました。

そして、イエスが「ああエルサレム」と嘆かれたその心の状態も感じ取れてきます。

その嘆きのあとでイエスはエルレサムに入られます。そして、宮から商人たちを一掃されます。まさにこの最終節との一貫性を感じ取ることができます。

 

”主があなたがたのために戦われる。あなたがたはただ黙っていなさい。”

これは、私がよく自分に投げかける出エジプトのみことばです。

世にあっては、戦いがありますし、勝利があって敗北もありますし、喜びも悲しみもありますが、それがどうした、という感じです。

ただ主の御前に静まること、このQTがそうですし、今日のみことばにある礼拝もそうですし、祈りもそうでしょう。

そうすることが、目には見えない霊的に既に来ているエルサレムに踏み入って神を求める通り道です。神が戦ってくださるのですから、心乱すことなく、恐れることなく、神に従うことにフォーカスして生きればよいということかと思います。

新しい聖書へのアプローチを教えられた、そういうゼカリヤ書のQTでした。