1 ダリヨス王の第四年の第九の月、すなわち、キスレウの月の四日に、ゼカリヤに主のことばがあった。

***帰還から十数年経過

2 そのとき、ベテルは、サムエツェルとレゲム・メレクおよびその従者たちを、主に願うために遣わし、

3 万軍の主の宮に仕える祭司たちと、預言者たちに尋ねさせた。「私が長年やってきたように、第五の月にも、断食をして泣かなければならないでしょうか。」

***宗教的習慣のことについての積極的な問い

4 すると、私に次のような万軍の主のことばがあった。

5 「この国のすべての民と祭司たちに向かってこう言え。この七十年の間、あなたがたが、第五の月と第七の月に断食して嘆いたとき、このわたしのために断食したのか。

6 あなたがたが食べたり飲んだりするとき、食べるのも飲むのも、自分たちのためではなかったか。

***神の方を見て断食していたのか、そうではなく自分たちのための飲食であり断食であっただろうという神からの糾弾

7 エルサレムとその廻りの町々に人が住み、平和であったとき、また、ネゲブや低地に人が住んでいたとき、主が先の預言者たちを通して告げられたのは、次のことではなかったが。」

8 ついで、ゼカリヤに次のような主のことばがあった。

9 万軍の主はこう仰せられる。「正しいさばきを行い、互いに誠実を尽くし、あわれみ合え。

***神の御心は、宗教的慣習ではなくこのような人間関係に現れるものの方が優先と見れる

10 やもめ、みなしご、在留異国人、貧しい者をしいたげるな。互いに心の中で悪をたくらむな。」

***礼拝とはそういうこと

11 それなのに、彼らはこれを聞こうともせず、肩を怒らし、耳をふさいで聞き入れなかった。

12 彼らは心を金剛石のようにして、万軍の主がその御霊により、先の預言者たちを通して送られたおしえとみことばを、聞き入れなかった。そこで、万軍の主から大きな怒りが下った。

13 「呼ばれたときも、彼らは聞かなかった。そのように、彼らが呼んでも、わたしは聞かない」と万軍の主は仰せられる。

***神不在の宗教活動をしていても神は無視される、神の沈黙

14 「わたしは、彼らを知らないすべての国々に彼らを追い散らす。この国は、彼らが去ったあと、荒れすたれて、行き来する者もいなくなる。こうして彼らはこの慕わしい国を荒れすたらせた。」

 

まず、帰還したイスラエルの人たちが、神に対して「バビロンでやっていた断食はまだやる必要があるか」と聞いていることは、私は近づきの印である気がします。

これは、正常な回復だと思います。

 

なぜなら、聖書に登場する多くの神に近づいた人物やマルチン・ルターなんかもそうですが、”神への問い”を行っているからです。

向かっている方向が良い方向であることがわかります。

 

その逆、神に近づかずに、まるで神に近づいているかのような事をやって自己満足を得ていたことを、神は糾弾されていると思います。

 

ここですぐに頭を過るのは、サウル王です。

ペリシテ人との戦いの前に、サムエルからの指示(神からの預言)に従わず、恐らく焦りから、自分勝手にいけにえを捧げてしまいました。

 

いけにえを捧げるという宗教的行為は積極的に実施したのですが、それは、神の言葉に従わないことを自分のその行為でマスクするという、大きな矛盾をはらんだ不信仰でした。

 

このことは、王国となったイスラエルの初代王から起きていました。

このDNAと言うか、血脈と言うか、王国イスラエルの性質が、バビロン捕囚という最期に結びついていることを強く思わされました。

 

しかし、帰還の民は、神にうかがいました。

サウルが勝手に儀式だけをやったのとは大きな違いがあります。

ですから、イスラエルの風向きが変わろうとしている瞬間でもあると思った、というわけです。

 

この、信仰から出る行為に見えて、信仰ではない、神不在の宗教的行為は、私自身も常に気をつけておかなければならないことです。

 

それは、そういう行為をしないように気をつけるのではなく、結果的にそういうことにならないように気をつけるということです。

 

神は「本当にわたしのためか?」と問われていますが、これこそ、いつも自分に問いかける文句として持っておくべきものでしょう。「本当に神のためか」と。

そうすると、結構な確率で、自分のためにやっていることがあるのに気づかされます。

 

サウルのDNAは、私にもあるということです。

全ての行動を点検すべきですが、特に、神に向かっていると思える行為についてまずは点検し、修正していきたいと思います。