1 私が再び目を上げて見ると、なんと、四台の戦車が二つの山の間から出て来ていた。山は青銅の山であった。
2 第一の戦車は赤い馬が、第二の戦車は黒い馬が、
3 第三の戦車は白い馬が、第四の戦車はまだら毛の強い馬が引いていた。
4 私は、私と話していた御使いに尋ねて言った。「主よ。これらは何ですか。」
5 御使いは答えて言った。「これらは、全地の主の前に立って後、天の四方に出て行くものだ。
6 そのうち、黒い馬は北の地へ出て行き、白い馬はそのあとに出て行き、まだら毛の馬は南の地へ出て行く。
7 この強い馬が出て行き、地を駆け巡ろうとしているのだ。」そこで彼が、「行って、地を駆け巡れ」と言うと、それらは地を駆け巡った
8 そのとき、彼は私にこう告げた。「見よ。北の地へ出て行ったものを、それらは北の地で、わたしの怒りを静める。」
**四台の戦車は単なる軍事ではなく神の摂理が世界の歴史を動かす霊的力
9 ついで私に次のような主のことばがあった。
10 「捕囚の民であったヘルダイ、トビヤ、エダヤからささげ物を受け取り、その日、あなたはバビロンから帰って来たゼパニヤの子ヨシヤの家へ行け。
11 あなたは金と銀を取って、冠を作り、それをエホツァダクの子、大祭司ヨシュアの頭にかぶらせ、
12 彼にこう言え。『万軍の主はこう仰せられる。見よ。ひとりの人がいる。その名は若枝。彼のいる所から芽を出し、主の神殿を建て直す。
***若枝を象徴する人物、イエス・キリスト
13 彼は主の神殿を建て、彼は尊厳を帯び、その王座に着いて支配する。その王座のかたわらに、ひとりの祭司がいて、このふたりの間には平和の一致がある。』
***王権と祭司の一致、イエスによってなされる贖いと統治の一致
14 その冠は、ヘルダイ、トビヤ、エダヤ、ゼパニヤの子ヨシヤの記念として、主の神殿のうちに残ろう。
15 また、遠く離れていた者たちも来て、主の神殿を建て直そう。このとき、あなたがたは、万軍の主が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。もし、あなたがたが、あなたがたの神、主の御声に、ほんとうに聞き従うなら、そのようになる。」
また今日も代表的な注解を参照しながら読み進めたのですが、特に13節の実現が、希望をもたらしているものであるように思いました。
簡易な言い方をすれば、イエスは1人で複数役ことなのかなと。
支配する側の最高位であられながら、かたわらにいる祭司は、支配される側の支配者とのパイプとか翻訳者のような役割。
人間の知恵の限界では、これを一人二役とか、自作自演のように見えてしまうかも知れませんが、この方法が唯一、人に入り込んだ罪の棘を抜き去ることが出来るもの、という認識を持ちました。つまり、これもまた、福音の構造に関わる預言だと思うのです。
ここで投げかけられるのは、では私自身はその傍観者なのか、ということです。
いえいえ、私は当事者です。
バビロンから帰って来た当時のイスラエルの人たちにとって、最も明確に示されるのは、「神殿の再建に進め」ということでしょう。
そして、神殿とは何か、その神殿を建てる主体は誰か、その主体が強大な力で世界を動かしておられることを前提的に伝えるものである気がしました。
当時、廃墟の町エルサレムで、神殿建設に進むことのモチベーションは風前の灯火であったと思います。
しかしこの神は、イスラエルが一体何であるかをご自身で証されるかのように、神殿建設について述べられるのです。
そして、その建設の能力とかエネルギーの出所もまた、主ご自身であることを伝えておられます。
私は結果とか顛末を恐れるものです。
何か新しいことを始めるにあたって、どんな結果に至るのか恐れて、時に尻込みします。
しかし、神が霊的な力で世界の歴史を動かしておられるように、そのミニマム単位としての個人の”結果””顛末”もまた握っておられることをまず覚えるべきでしょう。
そして、全てのものは主の力によってなされるとは思いませんが、主がその御心で”良い”とされるなら、その力が前進を受け持ってくださることは当然でしょう。
ここでは、神殿建設について神の主導があることが宣言されています。
今日のみことばから、私が得るのは”知恵”です。
まず、自分自身の行く末は神が受け持っていてくださることです。
そして、何か物事を進めるにあたって、主は御心であればそれを進めてくださるということです。もし御心で無ければ閉ざされるでしょう。
やってみないとわからないですね。
しかし、そのようにして、神はみちびかれることを覚えるのです。
結果を恐れるというのは、私については少々病的なものであることが、先日わかりました。
私自身はそれを病気であるとは呼ばず、一時的なコンディションとか、性格上の問題であると考えています。
ですから、正しいと思ったのなら思い切って、あまり考えすぎず、実行していくことが、私に出来る事で、それが信仰を働かせることなのだと、今日教えられます。