1 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。

2 主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」

3 ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。

4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」

5 私は言った。「彼の頭に、きよいターバンをかぶらせなければなりません。」すると彼らは、彼の頭にきよいターバンをかぶらせ、彼に服を着せた。そのとき、主の使いはそばに立っていた。

6 主の使いはヨシュアをさとして言った。

7 「万軍の主はこう仰せられる。もし、あなたがわたしの道に歩み、わたしの戒めを守るなら、あなたはまた、わたしの宮を治め、わたしの庭を守るようになる。わたしは、あなたをこれらの立っている者たちの間で、宮に出入りする者とする。

8 聞け。大祭司ヨシュアよ。あなたとあなたの前にすわっているあなたの同僚たちは、しるしとなる人々だ。見よ。わたしは、わたしのしもべ、一つの若枝を来させる。

9 見よ。わたしがヨシュアの前に置いた石。その一つの石の上に七つの目があり、見よ、わたしはそれに彫り物を刻む。―万軍の主の御告げ―わたしはまた、その国の不義を一日のうちに取り除く。

10 その日には、―万軍の主の御告げ―あなたがたは互いに自分の友を、ぶどうの木の下といちじくの木の下に招き合うであろう。」

 

新生イスラエルについてと、その先にあるイエスの到来までを含んだ超重要預言と言えるのではないでしょうか。

 

大祭司ヨシュアは、この裁きの場において何も言いません。

私はここが大事なことだと思いました。

 

罪にまみれたイスラエルを代表するこの大祭司ですが、反省とか悔い改めの言葉を述べるでもなく、ただ神の裁きにあること。

堂々としてたのでしょうか。そうではないと思います。

ひどく汚れた服装でサタンに神の前に突き出された、むしろ情けない状況であったと思います。

 

すると、神のみつかいは、その汚れた服を脱がせて、礼服に着替えさせるように、ターバンを着けるように言われました。

 

これがめぐみですね。

ヨシュアは何か努力したわけでもなく、ただ情けなく立たされただけです。

その上で、「もし、あながたがわたしの道を歩み・・・」と言われます。

これは、めぐみの構造、及び福音の構造的理解に直結していることです。

 

何もしなくても神のめぐみ、つまり罪が取り去られて神の前に正しい者としてくださる特別な権利は用意されています。

しかし、その権利は「自分で受け取る」という行為によって、はじめて獲得できるということです。

 

みつかいはその後、大祭司とその同僚は「しるし」となると言われています。

イスラエルの人々がバビロン捕囚から解放されて、エルサレムに戻り、そこで再び国が再建されたこと、そして、若枝であるイエスが来られてわざを成されること、つまりイスラエルが福音の「しるし」になっていくと。

 

イエスご自身はもちろん、神のゆるしとその構造の可視化です。しるしです。

しかし、そのしるしには、イエスご自身だけではなく、ゆるされた者もまた含まれていることを思います。

それは、私自身のことです。

 

今日、中学校の時の同級生数人と、夜に食事をすることになりました。

まじめな人間たちです。私以外は、皆社会的に高いステイタスにあって、裕福な暮らしをしています。

しかし、そこにもし、神の救いが無ければ、彼らの人生は虚しいと思います。

そのために、私は行くのだなと思います。

 

汚れた服は脱がされて、新しい汚れの無い、神の前にふさわしい服を着せられます。

それを脱いだり着たりする私自身が、別人になるのではありません。

ここに「しるし」の意味があります。

手本になれるかどうか、です。もちろん、私が手本として偉そうにするわけではなく、こんな私でも、神に変えられ得たことを告白することです。

今日、証をしたいと思います。