15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
16 互いに一つ心となり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。
17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。
18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。
19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
戦争はどうなんだ、犯罪への取り締まりはどうなんだ、自己防衛はどうなんだ・・・
色々な範囲の「戦う」がここで私に吹き出てくるのですが、その答えはまだまだわかりません。
”自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい”
ただ、私に関する限り、私個人に関する限り、このみことばが全てだと考えて今日を生き、明日も明後日も生きるべきなのだと、教えられます。
パウロがここで語っている相手は、ローマのクリスチャンたちに向けてのことですが、ローマの教会ではユダヤ人とそうでない人たちの間に溝があったようです。
その溝について「まず埋めよ!(in Chirst)」と言っているように聞こえます。
国がどうあるべきか、民族としてどうか、組織としては・・・などなど、所属するものの中での自分個人の考えとか感情とかは、その価値観や目的などの基準によって発生し続けるものです。
その対外的感情の代表は、実は怒りではないかと思います。
例えば、日本国にいる日本国民の感情が、特定国家に対する好意として盛り上がることはあまりありません。しかし、怒りとして燃え上がることは十分にあり得ます。
大平洋戦争の口火となった日本海軍によるハワイ真珠湾奇襲は、米国内での米国人による日本という国に対する怒りを強力に一致させました。これが、対日戦争への原動力の一つになったわけです。
これはもう、人の世界の常です。所属するもの全体の対外的感情は、怒りよって一致しやすいのです。逆に、他国家・国民に対して、親しみとか愛とかそのような感情で国家全体を一致させた話など、私は聞いたことがありません。
”だから”というわけでありませんが、パウロは”自分に関する限り”と前置いたのではないかと思います。
所属する集団としてどうあるかはさておき、個人は「戦うな!」と明確に指示しています。
私は思います。このことはつまり、国や地域や民族や、そういうものの所属に自分のアイデンティティを見出してばかりいてどうする、という事でもあり、これはつまり、根本の所属、というか帰属が「神」であることを呼び覚ませという激励でもあるのだろうと。
ユダヤ人たち、ユダヤ人としてではなく個人が神に属することを思い出せ。
それ以外の異邦人と呼ばれる者たち、ユダヤ人でなくともユダヤ人と同じ神に属していることを思い出せ。
こういうことではないかと。
ダビデは、自分を殺傷しようと追う者らに対して、その怒りを神にゆだねました。
「神よ復讐してくださいと」再三祈っていることが詩編にあらわされています。
そして「復讐は主のもの」とはあの神が律法で語っているものです。
パウロはそこに言及しています。
私の適用は、まさにその結論的なものですが、「復讐の怒りを捨てなさい」です。
深く受け止めたいと思います。
自分自身を深く掘っていくと、ある怒りに辿り着きます。
この熱は、まだ冷めていないもので、個人的な執念を感じます。
世間的な常識としてどうか、湧き上がってくるものとしてどうかではなく、そうではない自分以外の理由によって、その熱を冷まし得るのではないのか、と思います。
それは、情緒的のようでいて論理的、理性的でもあります。
私の罪は、私個人の何かではなく、私には同体ではない神によって処理され得ました。
その罪を定めて扱い廃棄される神によってのみ冷まし得ると考えるのは、普通のことです。
気合で我慢するとか、耐え忍ぶとかとは違う、自分とは別の力に与って冷ますのです。
パウロはそれを「神の怒りにまかせなさい」と言っています。
ダビデは「復讐の神よ!」とすがりました。
私の深いところにある怒りも、今日発生する怒りも、私個人ではない私の神への帰属によって廃棄したいと思います。
人にあっては、怒りが集団の一致を呼びますが、神にあってはその怒りの廃棄が一致を呼ぶのだと、そういうこともまた信じたいと思います。神の祝福とは、そういうところに流れてくるということも含めて。