14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか」とイザヤは言っています。
17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。
18 でも、こう尋ねましょう。「はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。」むろん、そうではありません。「その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた。」
19 でも、私はこう言いましょう。「はたしてイスラエルは知らなかったのでしょうか。」まず、モーセがこう言っています。「わたしは、民でない者のことで、あなたがたのねたみを起こさせ、無知な国民のことで、あなたがたを怒らせる。」
20 またイザヤは大胆にこう言っています。「わたしは、わたしを求めない者に見いだされ、わたしをたずねない者に自分を現した。」
21 またイスラエルについては、こう言っています。「不従順で反抗する民に対して、わたしは一日中、手を差し伸べた。」
もう10年ほど前になるのですが、クリスチャンになってすぐの頃、伝道に燃えていました。とにかく、燃えてたという感じです。
ただその頃の事はちょっとした傷を残しているように思います。
伝えた福音の内容は忠実だったと思います。しかし、数人以外は受け入れませんでした。
結構な人数に伝えたと思いますから、その率は相当低いものでした。
ところが、同じように伝えて回っているミニストリーの仲間は、毎週のように「受け入れられました!」という報告をするものですから、「受け入れませんでした」報告の私には、それがまぶしかったですし、自分は何か間違っているのではないかとか、そういう自分への不信を駆り立てられるような気分でした。
そもそも、自分の力や努力ではどうすることも出来ないものであることは、伝道活動をはじめてすぐにわかりました。
ですから、私は自分の不信仰のゆえに、自分の頑張り、自分の努力とか、場合によっては見栄のために伝道してるんじゃないのかと。
ちょうどその頃、Facebookをはじめて間もない頃でした。
懐かしい友達とどんどんつながることが出来たことはとても嬉しい事でした。
ところが、そのつながった友達と伝道のアポをメッセンジャーで取ろうとすると、時々つながりを切られたりしました。
また、アポを取って会いに行って福音を伝えると、心配されたり、時には怒る者もいたりしました。要するに、友達が幾分減ったんです。
これらを、私は正直、傷として今もひきずっているところがあります。
私は自分の頑張りだけで伝道しているのではないか、友達を無くしたり、宗教勧誘だと思われるのが嫌、というものです。
一昨日の夜、毎日のルーティンである家内との夜のウォーキングに出かけた時。
その日は少し疲労感があったので、ゆっくり歩こうということで、米国の有名な教会のメッセージを聞きながらテクテクと歩きました。
そのメッセージの中で、伝道の話になっていったのですが、牧師さんが言われたことがシンプルでした。
「(イエスを伝えると)こんな事を言うと友達をなくすかもしれない、今でもまだ信じてるのかとばかにされるかも知れない。こういう心配はないのかと言われたら私はこう言う。I don't care.」気にしないよ、と。
自分に一番必要なものだなあ、と、思いました。
自分の頭の世界で、ああなったらこうなる、こうなったらああなる、そんなものを繰り返すことに時間を取られている場合じゃない、ということです。
気にすんな。それだけです。
私のケースで言えば、もう気にすんな。になるでしょう。
今日のみことばも、こういう私の気にする必要もない長年の心配に対して、神が応えてくださっているものです。
そもそも、イエスに興味の無い者たちのところに選択的に、神がみちびかれているということです。
ですから、むしろ私が受けていることが自然であり、そこには確実に神がおられたということをもっと早くわかるべきだったと思います。そして間違いないことは、そんなことを気にする必要がないのです。
福音を、信じない者の耳に通すこと。ここに、神の求めておられる事柄あるのだと、今日確信的にわかった気がします。