1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。
5 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いています。
6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることなのです。
8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
キリストを信じること。つまり、本当に福音を受け入れているクリスチャンは「救われる」ことを頂いていると言えますが、「救われる」をかなりイージーに言えば「天国に行ける」ということになります。
ここで天国の定義が何なのかについてまでイージーに言うと、いずれ肉体は死んでも魂は生かされ、やがて肉体となってよみがえり「天国」と呼ばれる神の場所に至れる、ということです。
では「救われない」とは何なのかをイージーに言うと、「地獄」行きです。
天国が、”最早涙→苦痛・悲しみもなく”神と共に永遠に住まうところだとすれば、地獄は永遠の苦痛・悲しみの場所と定義してもよいでしょう。
そして大事なことは、天国行きか、地獄行きかしかない、ということです。
聖書は、救いを「救われる」ことでしか実現できないと語ります。つまり、受動態でしか表現できないのです。これが言わばパウロが言うところの「知識」に相当してきます。
ところが、自分で自分を「救う」つまり、能動態でそれを達成しようとしていると、パウロは当時のイスラエル人を糾弾します。例えば、熱心とかそういうものです。
少しニュアンスは変わりますが、日本にいて感じることは、真面目であることとか親切であることが、まるで天国に行ける条件のように考えられているところがあるということです。
真面目で親切でいることは、人間関係において素晴らしい素質であったり実践事項であるのは間違いありません。
しかし、ここでパウロが言うのは、それによって神はその人を「義」とされない→救われるのではない、ということです。
そして、信じることによってのみ救われ得るのだと語るのですが、私はここが重要だと思います。
信じるの”現れ”と言ってよいと思うのですが、それが、口でイエスが主であることを告白すること、心から神がイエスを死者の中からよみがえらせられたことが”事実である”と信じることです。
口でイエスが主であることを告白するのは、もしかすると一人なら簡単に出来るかも知れません。しかし人前で、それを宣言することは簡単なことではありません。
ここがポイントです。人前で告白しなければならない、というわけではありませんが、そのように言えることこそが、信じることを現わすのです。
私は、社会生活上そのような告白が必要でもないのに、イエスが主であることを告白した事例を知っています。友人です。
彼は障害を持っており就職が困難なのですが、その面接試験の時、誰からも質問されたわけでもないのに、その告白をしました。しますか?普通。
そしてその結果、セクションこそ変りましたが国家公務員として今も勤めています。
私は、その告白に祝福があることを強く信じています。
イエスを私は信じている。イエスは私の主である。これを誰かに告白することは、まるで一般道からハイウェイに上るようなもので、何かが開かれるように思うのです。これは、私の体験からです。信じていなければ、それが出来ることはありません。
つまり、救われ得る信仰の形が、この口で声に出して誰かに信仰を告白することであると、私は思っています。
もちろんそれは、自分の罪を認めることと悔い改めという行動があってこそ、その知識に基づいた反応ということになるはずです。
今日のみことばからは、口に出すこと、の実践が促されています。
寡黙であったり、無口であったりすることは、時に美徳のように扱われます。
私も、あまりべらべらと喋るような人より、寡黙な人の方が付き合っていて楽です。
しかし、大事なことさえも喋らなかったり、自分が考えていることを黙っていながら、誰かに何かを伝えたり、理解してもらうことなんて不可能です。
今日、仕事で接待交際のようなものがあります。
きらびやかな会場に足を運ぶことになるのですが、ここでこそ私は何かを喋らなければならないと思っています。
自分の好き嫌いのことではなく、神の栄光のために何かを口で伝えること。
それこそ、信仰告白でもって主の御旗を翻して来てやろうと意気込んでいます。