25 それは、ホセアの書でも言っておられるとおりです。「わたしは、わが民でない者をわが民と呼び、愛さなかった者を愛する者と呼ぶ。

26 『あなたがたは、わたしの民ではない』と、わたしが言ったその場所で、彼らは、生ける神の子どもと呼ばれる。」

27 また、イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます。「たといイスラエルの子どもたちの数は、海べの砂のようであっても、救われるのは、残された者である。

28 主は、みことばを完全に、しかも敏速に、地上に成し遂げられる。」

29 また、イザヤがこう預言したとおりです。「もし万軍の主が、私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラと同じものとされたであろう。」

30 では、どういうことになりますか。義を追い求めなかった異邦人は義を得ました。すなわち、信仰による義です

31 しかし、イスラエルは、義の律法を追い求めながら、その律法に到達しませんでした

32 なぜでしょうか。信仰によって追い求めることをしないで、行いによるかのように追い求めたからです。彼らは、つまずきの石につまずいたのです。

33 それは、こう書かれているとおりです。「見よ。わたしは、シオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。彼に信頼する者は、失望させられることがない。」

 

人間的な常識によれば、イエスを信じるだけで救われるというのは、理解さえ難しいことであることがわかってきます。

 

イザヤが預言した、イエスはつまづきの石であることをパウロはここで説明しています。

福音を理解できない、信じようとしない。これではつまづきになってしまうというのです。

 

日本は謙遜の美徳がもてはやされるところがあります。

「私のような取るに足らない者にそんなめぐみなんて滅相もございません。それを受け取る資格がありません。」というのが、まるで常識的であったり、美しかったりします。

しかし私は、そういう日本文化にあってこそ、神のめぐみの大きさは理解できるものだと思っています。

 

めぐみには本来、当たり前に受ける、という受け方はそぐわないところがあります。

それでは、めぐみではなく、当然の権利のようであるからです。

絶対に、当然ではありません。「私のような・・・」罪を持って汚らわしい人間、であるからこそ、受けなければならないめぐみ、それこそが「つまづきの石」「妨げの岩」イエスです。別の言い方をすれば、神の愛が最も示されたところです。

 

パウロが言及するように、人種のゆえに受けるものではないのです。

 

日本人のよくあるケースとしてこんなものもあります。

「私は日本人だから日本の神様で結構です。」「キリスト教は外国の神様だから私には合わない。」

このような言葉に対するパウロの説明であるようにさえ思えます。

 

イスラエル人であるから救われるのではない。

なんとイスラエル人であるパウロは、このことをイスラエル人に宣言しています。

 

義を追い求めた異邦人、つまりイスラエル人ではない人々は、その信仰によって義を得たのに、律法によって義を得よう(義になろう)としたイスラエル人はそれを得なかった、と言うのです。

義とはつまり、神に良しとされると言い換えてよいと思います。つまり救いに与ることです。

 

信仰によって、なのです。

ただ、信じるという心の動きとか、もしかすると決断なのかも知れません。

そういう言わばスイッチを押した途端、「めぐみ」ですから、自分の力とか自分の根性、努力、気合ではない、自分ではない外部的な力によって引き上げられていくのだと思っています。

 

アメイジング・グレイスと言う有名な賛美があります。

歌い出し「驚くばかりのめぐみなりき」の通り、まさに、驚くほどのめぐみが・・・得ることなんて到底できないと思っていためぐみが・・・神によって降り注ぐのです。

信じることによるという、心の動き一つなのに、降り注ぐものがあまりに大きなものだから「驚く」のです。

 

いつも私は、想像豊かに、そして期待を豊かにしながら、このQTでみことばをたどります。すると、今日もあるイメージを浮かべています。

驚くべきめぐみは、確かにそのゴール地点として永遠のいのちである、神と共に永遠に住まうことではあるのだけれど、そのことが永遠であることをもっと受け入れる時、今こうしている時にももう既に自分が、その永遠の最も近いところにいることが、じんわりと感じてくるのです。

 

このようなことは、聖書に書いてあるものではありません。

ただ想像として、神が永遠の存在であられるがゆえに、時間的な感覚である”現在”とか”未来”とかを捨ててみると、今も永遠の一角じゃないか!と悟らされるのです。

 

つまり、神によってのみ与えられるこの驚くべきめぐみは、信じた時から既にその範囲に入れられるものなのだと思えて来るのです。

それは、不思議な安堵のような、やわらかいものにもたれかかるようなものです。

 

それでも、この体、この世に属しているものは相変わらずですから、そういうめぐみから引き離そうとする引力に引っ張られる結果、自分自身にテンションがかかってしまっている状態が続くことになります。

そのようにしてい生きる他ないのだと、パウロは頻りに言っているようにも思います。

 

そして、これは今日の適用なのですが、そういうしんどさを含めたイエスの受け入れが世にあっては「つまづき」であったとしも、「失望させられることはない」のです。

 

失望しちゃだめ、ということでもあると思います。

失望はすぐにやってきます。どんなことに失望したとしても、このイエスにだけは失望がないことを覚えたいと思います。

 

失望とは、あきらめに似ていると思いますが、私にはいくつかあきらめがあります。

大きくは3つあります。

そのどれにおいても、あきらめないこと。イエスがまるで語っておられるようです。