12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光とをともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。
聖霊を受けること、どんな聖霊を受けたか。
聖霊に満たされること。
私は、もっと私の内に住まわれる聖霊様に信頼し、自分自身の外部的な気合によってではなく、その聖霊様の力によって変われることを信じるべきだと思いました。
気合信仰なところがあってしまうんです。
正しくあろうとするその同期が、神ではなくて、例えばクリスチャン同士の目線であったりもするんです。※それが悪いとは思っていませんが
肝心なことは、そういう力が自分に既に入ってくださっているということを、もっと誇り、もっと期待することなのかなあ、とも思います。
パウロが説得するようにここで語っているのは、そういう目線の先の話なのかなと思いました。
聖霊は確かに、私のうちに住まわれています。
こうして、毎日毎日、磁石に吸い寄せられるようにみことばに触れようとするのは、私の心ではなく聖霊の心です。
しかし、聖霊で満たされているのかというと、そうでもないのです。
どうやったら満たされるか。
その一つが、聖霊を誇ることとか期待することなのではないか、そのように思いました。
世にあって、私はそんなに立派な者ではありません。
しかし、聖霊にある時、私は神の相続者とされているわけです。
これを誇ることですね。