1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。
2 なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。
3 肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。
4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。
10 もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
これは素晴らしいパウロによる軌道修正のための助言なのですが、7章が肉にあるところの苦しみとか葛藤をリアルに語るのに対して、8章はまさに救いです。
これは大きな励ましであるのですが、パウロは、誰かを励まして元気を出させようとしているというよりも、自分自身を客観的なところから見つめて大事なことを刷り込もうとしているようにも感じます。
まあそれは、7章で自分自身の葛藤を告白しているところから来るものなのですが、パウロがこうして手紙を多く記したのは、もしかすると、自分自身をキリスト共に十字架に縛り付けるためであったのではないか、とも思えてきますね。
それが最善であることを知りながら、肉のパウロもまたいたわけです。
私は、パウロは聖人などとして、信仰の対象になるような人物ではなく、むしろ、私らと同じ平凡な人としてこのように一種の自己分裂に直面し続けながら、それでも神に従うことになんとかして進んでいったのだと、、、、それこそ、キリストに似ることの体現であり、またそれは後に続く者への励ましになり得るのだと、、、、そんように思っています。
そしてこの8章で、彼が自分自身を鼓舞するように主張するのは、”キリストを信じた者は肉の中ではなく御霊の中にいるのだ”と。
それはどういうことかと言うと、あのキリストを死からよみがえらせた神の驚くべき力が、まさにこの罪の体、罪の肉、病的に汚れて滅ぶしかない体をも生かされる、と言います。
もし悔い改めているクリスチャンであれば、このことは、悔い改めの後に来る答えであることを知っているからこそ悔い改めることが出来るのだと感覚的にわかるように思います。
もし、神への悔い改めを損得勘定で測るとして、損も得もない、とか、そんな無駄なことをするのは損だなんて思うなら、そこには悔い改めはありません。肉の喜びと苦しみに生き、また死ぬだけの運命です。
しかし、悔い改めることによって、神の御霊の中に生きるということと、それによって罪の体が死ぬ方向ではなく生きる方向に仕向けられるという”得”を文字通り”得”とわかるなら、そこにはもう選択肢は無くなって悔い改める他無いわけです。
これは、自分自身の罪を深く反省しているから起きる超常現象ではないのですが、反省が救いへとみちびかれやすいというのは事実でしょう。
私のような失敗者は、失敗ゆえの荒んだ人生の瞬間と、反省というか、後悔があったからこそ、そこに光のように福音が降り注いだわけです。
では失敗者ではなく成功者なら、反省も後悔もないのかというと、それはそういうことではないのは明白です。人それぞれ、神を信じようとする瞬間は与えられるものだと思っています。ただし、イエスが言われるように、金持ちが天に至るのはラクダが針の穴を通るほど難儀だと、、、、実際には難しいものであるようです。
今日のみことばをどのように適用しようかと思うのですが、肉の思いを一旦置く、ということにしたいと思います。
仕事で競合他社がありまして、これがわが社を狙って結構な中傷じみたことを言うのですよネットで。
これに対して、うちはそんなんじゃありませんとか、真実はこうですとか、そういう対応をし、加えてその会社のこともいちいち攻撃すると、、、、そこはもういいじゃないか、と。
ただひたすら、うちの会社はうちの会社の良さをアピールして、コマーシャルターゲットがそれをどう受け取ってくれるのかだけを考えいければよいかなと思います。
要するに、とりあえずこちらかいちいち攻撃するのはもうやめようと思います。
神が与えてくださるいのちと平安は、そういう小競り合いのような中で発揮される強さではなく、圧倒的なもののはずですから。