15 それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
16 あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至るのです。
17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、
18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
19 あなたがたにある肉の弱さのために、私は人間的な言い方をしています。あなたがたは、以前は自分の手足を汚れと不法の奴隷としてささげて、不法に進みましたが、今は、その手足を義の奴隷としてささげて、聖潔に進みなさい。
20 罪の奴隷であった時は、あなたがたは義については、自由にふるまっていました。
21 その当時、今ではあなたがたが恥じているそのようなものから、何か良い実を得たでしょうか。それらのものの行き着く所は死です。
22 しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
手足を義の奴隷としてささげる。
心の状態とか、考えとかで、信じているかどうかを確認したところで、その答えを自分自身で用意してしまっているところがあるので、本当の答えはなかなか出てこないものです。
一方、何を考えているか、何を志向しているかは、行動にあらわれてくるものです。
私は完全悪という程でもない、と思いたいのですが、残念な事に、ある種のブレーキをいつも引いていなければ、私から出て来る言動はどちらかと言えば悪です。
しかし、そんな中でわずかに希望を持てるのは、何か他人に対して親切な事をしたいという行動にも駆られているのです。
一体、この悪と親切志向の共存は何なのだろうか、と悩むのですが、恐らく、人は、人間関係の中で生きる時に、神が与えてくださったご性質が現われるのではないかと思います。
だからこそ、アダムをして「一人でいることはよくないから」とのことで、エバをその骨からお与えになったのだろうなあ、とも思えてきます。
しかも、エバはアダムの骨から出来た人間です。どうしたって、関係ある者と言えます。
その上で、神に手足を奴隷としてささげる、というのは、主には人間と人間同士の相互の関係性において、何か良い事を発揮できるようにという期待だと思っても良い気がしてきます。
一人にあって、悪的な行動へのブレーキを握るんだと鼻息荒くなるよりも、人との関係性において、良い事が出来ると期待した方が、私にはまだ心の安らぎがあるというのが正直なところです。
今日は、出張先での行動になりますが、普段はあまり関わりのない人たちとの交わりがあります。
その時にこそ、手足を神に供える、犠牲とする。これを、積極的なマインドセットとして持っていきたいと思います。
それであってこそ、この罪の体、罪の社会において、本当のブレーキとか蓋になるのではないか、そういう思いもあります。