18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる」といわれていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。

19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱まりませんでした。

20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、

21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました

22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。

23 しかし、「彼の義とみなされた」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、

24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。

25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。

 

アブラハムが信じることができない状況で信じたものは、子孫が星の数ほども増え広がるという神の約束です。

「信じることができない」というのは、彼も彼の妻も既に高齢で、生理的に出産能力を失っていたからです。
それで、子孫が増え広がるなんて、一体どうやってそんなことが起こるのだろう、と考えるのが普通で、これを心から信じるのは難しいことです。

ここで思い出されるのは、イエスの肉の母、マリアです。
マリアは、性交経験すらないのに子を授かることを御使いによって告げられ、それを信じました。
マリアの親族であり、バプテスマのヨハネの母であるエリサベツの言葉を借りるならば、「信じきった」のです。

ここで、現代に聖書を読むことができるクリスチャンにとって、イエスについて信じることのチャレンジが二つ浮かび上がってきます。

一つは、誰もがそこに希望を見出すイエスの復活です。
それは、死んだ人間がよみがえるという普通では考えられない出来事であり、それをもたらされた神の全能性によるものでした。
つまり、神の存在そのものを信じることにもつながってきます。

もう一つが今日のチャレンジであり、改めて考えるべき点ですが、イエスがその誕生において処女から生まれた存在であるということです。
これは私にとって信仰を補強するものです。

アブラハムを義とされた神は、本来なら生まれるはずもないアブラハムの子→イサクの誕生を宣言されました。
アブラハムは、その子が常識的には生まれるはずもない状況で「生まれる」との言葉を信じました。
そして「子孫が増え広がる」ということも、まさにその「生まれるはずもない自分の子」の誕生に結びつけて信じることができたのではないでしょうか。
生まれるはずもない子が生まれるのだから、増え広がるはずもない子孫が増え広がるのだろう、と。

聖書における「神を信じる」とは、このようなリンクによって次々と信仰が補強されていくところがあると思います。

なんだか、またQTの題材からは少し外れてしまいましたが、パウロがローマ人に語ったところもまた、信仰の補強なのかもしれないと思いました。
アブラハムをモデルとして、イエスを信じることもまた神から義とされる、ということを語っているのです。

最初であり、また最終的でもある信仰の補強、つまり祝福の核心は、実は「創造」ではないかと私は思います。
そう考えると、聖書は初めから人を義とするためのガイドであることがわかってきます。

聖書のはじまり、
「初めに神は天と地を創造された。」

もし最初にこれを信じることができたなら素晴らしいですし、イエスを信じた後にこれを信じたなら、信仰において揺るがぬ支えとなるでしょう。

「信じきる」ということは、このように多面的に表される神の力への気づきによって可能になるのではないか。それが、今日の思い巡らしでした。