1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。

2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。

4 働く者の場合に、その報酬が恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。
8 主が罪を認めない人は幸いである。

 

いつもいつも、わかっておかなればならないことです。

 

何の働きものない者、不敬虔な者を義と認めてくれる方を信じるなら、その信仰が義とされる。

 

信じる、という心の動きは、なかなか説明がつくものではありません。

信じることによって、永遠のいのちが与えられるのだと聖書は語りますが、では信じるってどういうことなんだ、と。

 

今日のみことばからは、アブラハムとダビデという、わかりやすい事例が並べられていますから、これについてよくよく思いを巡らせました。

 

アブラハムの事例は、私が神に求め続ける救いとは、やや違った方向性を感じます。

というのは、アブラハムは、意外にも信じなかったからです。

 

アブラハムは確かに、神の約束を信じました。

子供がいないアブラハムに、星の数ほども子孫を増やすと約束された神のことばを信じたのです。

ただ、現実的にはどうだったかと言うと、100歳ほどの時に、その子孫の第一歩とも言える”子供を授かる”という声を聞いて、笑いましたよね。100歳でまさかそんなことが起こるはずがない、と思っていたから笑ってしまったのです。到底、信じることが出来ませんでした。

しかし、神は確かにその約束を実行されました。

 

イエスが復活しただって?死んだのに蘇生しただって?そんなことあるわけがないだろう。これは、一般論だと思います。そう思って普通です。

 

ただこの神はその昔、イスラエルの始祖と言えるアブラハムに対して、到底ありえないことを宣言されて、アブラハム自身もその妻も咄嗟には真剣に受け止めることが出来なかったのですが、ちゃんと約束を果たしてくださいました。

 

ありえないようなことが、ありえるものとしてくださる神。

信じる、というのは、そういう「まさかそんなことが起こり得るなんて」という驚きや期待を含めて、信じるようにする、ことなのかも知れないなあと思いました。

このことは、あのAMZING GRASEとして歌になっています。「驚くばかりのめぐみ」。

 

イエスの復活というのは、それを目にしていない私たちの世代にとっては、信じるしかないのですが、信じるようにするとき、実際にありえもしないAMAZINGが起こる可能性が大きくなるのだと、私は思いました。

 

もちろん、パウロがここで言っているのはそれではなく、神が罪人を義としてくださるめぐみ、を言っています。

しかし私は、その神が付与してくださる義によるならば、この世の人生においても

AMAZINGが起こり得ることまで信じたいのです。

アブラハムと妻はは100歳で子を授かるというAMAZINGによって証されたのです。イエスは死んでから3日目に息を吹き返すというAMAZINGによって証されたのです。神のめぐみは本当だと言うことを、神ご自身が証してくださるとともに、神の御心へと着実に前進されているのです。

 

信じるとはつまり、全てを信じきることへの一歩だと、私は思いました。

自分の身に、何か素晴らしいAMAZINGが起こるとすれば、信じるようにした方が良いのではないですか。

私はこれがどういうことかを、なんとなく感じています。それは、信じるようにした時に、人生の行先が変わり、行先が変わるということは、道もまた変わるから、今までには考えもしなかったAMAZINGが起きる確率が上がるんじゃないかと。

全ては、本当に信じることが出来るようにと神が備えてくださるものなんじゃないかとも。

 

今日、この私自身の行いによっては不義でしかない欠陥人間の私を、神は義としてくださることを信じる者になります。

不義であることがわかってこそ、義がめぐみによって与えられ得るということです。

今日か明日かはわかりませんが、神が起こされるAMAZING GRACEを期待します。