9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちの前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。

10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。

11 悟りのある人はいない、神を求める人はいない。

12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」

13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」

14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」

15 「彼らの足は血を流すのに速く、

16 彼らの道には破壊と悲惨がある。

17 また、彼らは平和の道を知らない。」

18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」

19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。


25 神は、イエス・キリストを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです

 

23節、24節は、間違いなく福音の核心であり、福音を語るにおいてはこのことを通らずには説明にはならないでしょう。

 

全ての人は罪人であること、神から栄誉が受けられない→見放される運命にあること、それでもその罪が赦され得るのは、ただ神・イエスから与えられるものでしかないこと、つまり、罪人自身の行いによって赦されるのではないこと、そしてその神からの赦しによって”義とされる”ことです。

 

私にとって、今回のQTでの深まりを感じているのは、その罪人を義としてくださる神の御心は、ご自身の義を現わすことだ、ということです。

 

神は愛なり。と聖書は言います。

一方で、義なり、とも語っています。

愛と義は、一見相反するようのものに見えます。

愛にあっては赦しがあり、義にあっては罪に対して決然とした姿勢があるからです。

神は、人の全てにある罪を、ほんのわずかなものでも見逃しておられません。

ただ罪に対して決然として罰するお方であるという事です。

赦しと罰の完全執行は、人の考えでは完全に真逆のことです。

ですから、愛と義は相反するような、矛盾しているような、そのように見えてしまうのです。

 

しかし、その赦しの方、つまり愛の現れであるイエスが来られたのは、なんと神の義を現わすためなのだとパウロは説明しています。

イエスが愛の現れであることは、誰でもわかることでしょう。この方を信じるなら、罪は赦されるのですから。神からの罰にあわずに済むのです。

ところがそれは同時に神の義であるとわかるのは、神が義であるからこそその愛もまた愛であると初めてわかるということです。

 

イエスのみわざは確かに、神の義が愛と同時に現れていることを明瞭にしています。

もし、神が義でなければ、イエスは不要だからです。

そして、更に凄い事は、その愛と義の現れを「信じる」という心で人間が捉えるなら、なんとその人間は、赦されてほっと安堵の胸をなでおろすどころか、「義としてくださる」ということなのだとパウロは言っています。

 

人間側からの視点で見ると、神の義によって(律法)は、自身は不義であることがわかります。律法を完全に守ることなど出来ないからで、その人間のことを罪人呼びます。そして、そのことによって初めて、赦しを求める心が育まれるわけです。

神は罪を罰されなかったのではなく、忍耐してすぐさま罰の苦しみにあわせるようなことはなされなかっただけだということまで「わかれ」とパウロは言っているような気もします。

そして、赦しがイエスによって与えられると。

福音は、愛と義という神の両性質が、神にあって一体なのであって、相反するものでも矛盾でもないことを、証してくださっているもの、ということも言えるのかと思います。神の愛を示されるにあたっては、神の義もセットでなければならない、それを人が知らなければならない、ということで間違いないでしょう。

 

そのことによって、あの守り切れることのなかった律法が、人間によって全うできるだけのもの、完全な義人にしてくださるということです。律法は、人ではなく神のめぐみによって完全に無違反とされ得ること。これが、神に愛・義の現れの言い換えになりますね。

 

これは、福音のリバースエンジニアリングです。

神の愛とか、赦ししか見えない表面的な人間の信仰によるメリットは、分解してみると、そこには強烈と言える神の義が内在されていることを知ります。

このお方が、イエスを信じる者は義とすると言われるのですから、信じた方が良いに決まっているじゃないですか、ということになってきます。

 

うちの姉なんかは、「あんたはもう祖父母の墓は守らなくてもよい、代わりに私が守るからクリスチャンにはなれない」と言いことます。

言っている意味はわかりますが、墓をとりあえずは維持するなりして、この神を信じることをまずは優先すべきです。墓をどうするかはその後考えればよいのです。

墓を蔑ろにすることによって、何か災いが降りかかるとか言うのは、典型的な宗教勧誘の手法です。

ご先祖さまを大事にするという意味で、墓を守るというのは、何か道徳的に正しいことをしているように思えるところがありますが、それはそれです。いくらやっても救われません。

それよりも、神が義であられることを覚えて恐れ、そこから救われ得るイエスをまずをまずは信じることによって愛によって赦され義とされないとだめでしょうがと、私は言いたいのです。

 

すっかり私の言う事は、宗教にはまった人の言質でしょうが、日本の世間一般にあってはそうでも、どこか別の世界に行けば、私が言っていることの方がまともです。墓を守らなければならないからこの聖書の神を信じないなんて、それはちょっと考え直した方がよいよとという。

もちろんそれは、人間的な視点とか概念の見方で言うのですが。

 

今日のみことばからは、この両面性を一つとして受ける、ということを知恵として与えられたとも思っています。

正しさと間違いは、セットであってこと、正しく・間違い、であり得ます。

喜びと苦しみもまた、セットであってこそ、より喜びや苦しみが感覚として強く受けることになります。一種の相対性です。

これは、信仰というよりも、知恵の領域で受けていることなのですが、特に仕事を進めるあたって、その相対性を意識しながら、今日は進めていきたいと思います。