1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。

2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。

3 では、いったいどうなのですか。彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。

4 絶対にそんなことはありません。
たとい、すべての人を偽り者としても、神は真実な方であるとすべきです。それは、「あなたが、そのみことばによって正しいとされ、さばかれるときには勝利を得られるため。」と書いてあるとおりです。

5 しかし、もし私たちの不義が神の義を明らかにするとしたら、どうなるでしょうか。人間的な言い方をしますが、怒りを下す神は不正なのでしょうか。
6 絶対にそんなことはありません。
もしそうだとしたら、神はいったいどのように世をさばかれるのでしょう。

7 でも、私の偽りによって、神の真理がますます明らかにされて神の栄光となるのであれば、なぜ私がなお罪人としてさばかれるのでしょうか。

8 「善を現すために、悪をしようではないか」と言ってはいけないのでしょうか—私たちはこの点でそしられるのです。ある人たちは、それが私たちのことばだと言っていますが。—もちろんこのように論じる者どもは当然罪に定められるのです。

 

福音を曖昧なものではなく、厳密な論理として理解する時、神が義であられることを避けて通ることは出来ません。

 

神が義、しかも絶対的な正義であられることが、キーとしては最も大事なものの1つです。ちなみに、もう一つのキーは、神が愛であられることだと考えています。

 

これ、もしもまともに説明していこうとすれば、創世記の1章1節からになるように思いますし、誰か本当に知的に理解している人がいるのだろうか、という程、難解でもあると思います。

 

今日のみことばから私が受けることは、神の存在そのものが絶対であるということです。

神無くして、この世はありません。神無くして、動植物も人間も存在しません。

ということは、神の義が人間の罪によってあらわにされることはあっても、人間の罪そのものが神の存在そのものに何ら与えている影響は一切ないということです。

 

もしそのことを、人間中心に取り上げて、肉的な利益に利用しようとすれば、 「善を現すために、悪をしようではないか」などという発言が出て来るのでしょう。

 

そのようなことを言える人は、そもそも神の義どころか、本心で神の存在を侮っています。習慣とか文化的にイエスや神を捉えていたりして、軽んじているのです。

そういう、神をいない者として生きるという罪の根拠でもって、神を信じている言うのは、そもそもつじつまが合わないことです。

 

しかし、そんなに偉そうなことを言いながらも、私自身にもそういう瞬間が毎日のように訪れているとも思うのです。

 

それは、言うなれば、罪に不感になっているということでしょうが、この瞬間瞬間が、実のところ恐ろしく破壊力があり、強固だと思われている信仰を簡単に貫き通してしまうことを、私は確かに経験しています。

 

そして、そういう罪への不感の瞬間との戦いが、恐らくこの世で生きているうちは繰り返されることになるだろうと予想もしていますが、そうなればそうなるほど、私にはイエスが必要であることもまた、確かにわかるのです。

 

恐らく、パウロはそのことを言いたげです。

本性の自分を客観的に見ると、相変わらず救いようのない人間ですからね。

本来の救われない原因は、神の義によります。神は、どれだけ善行を積んで熱心に教会の活動に精を出す人であっても、その人の罪については、寸分の妥協もなく否定されて、その人を見放されます。捨てられます。

しかし、このような人であっても救われる原因を、同じ神がお持ちなのです。

それがイエスです。イエスがご自分で進んで十字架にかかられて、全ての人の罪のために身代わりとなってくださったため、神の義に対する罪の”除去”が終わっているのです。

このイエスを信じること。確かに、イエスが十字架にかかられて、死後によみがえられたことを事実であると信じることによって、罪は消されると聖書は語っています。

 

つまり、信じるとは、神の義だけではなく神の愛を共に受け入れて、自分のものにしていく積極的な人間の行動のことであり、ただ罪にフォーカスして自分の欲望のために神を利用することでは、絶対の絶対にありません。

神の愛を受け入れるなら、そんなメンタリティにはならないのではないですか。

 

私は昔、新築一件を超える借金を抱えながら、それを肩代わりしてくれた存在を経験しています。それにより借金はゼロになりました。

もしも・・・その肩代わりしてくれた人がまた肩代わりしてくれるだろうと、私が性懲りも無く莫大な借金を作ったとしたら、その人はまた肩代わりしてくれますか?

あり得ないでしょう。

 

私は救われているから、とか、神の義があらわされるから、とかいう理由で、罪を繰り返すなら、それはイエスにもう一度十字架にかかれと言っているようなものです。

残念ながら、この世で生きている限り、クリスチャンであっても、罪の誘惑からはのがれることは出来ないはずです。それをどう扱うか、だと私は思います。

イエスにもう一度・・・・というなら、それは信仰が消えたことを意味しているはずです。人間的な選択として出来る最善は、まずはイエスを思って罪と戦うことです。そうすれば、悔い改めが湧き出てくると思います。そういう状態であってこそ、辛うじて信仰を保つことが出来るようにも思います。

 

クリスチャンがどうあれ、信じていない人がどうあっても、神は一切の影響を受けられることはありません。

ということは、神に合わせる、神主導に生きる、神の御心を探し求める、それが合理的です。