1 第九年の第十の月の十日、私に次のような主のことばがあった。

2 「人の子よ。この日、ちょうどこの日の日づけを書きしるせ。ちょうどこの日に、バビロンの王がエルサレムに攻め寄せたからだ。

3 あなたは、反逆の家に一つのたとえを語って言え。神である主はこう仰せられる。なべを火にかけ、これを据え、水をこれに注ぎ入れよ。

4 これに肉の切れ、ももと肩の良い肉の切れをみないっしょに入れ、えり抜きの骨でこれを満たせ。

5 えり抜きの羊を取れ。なべの下には、まきを積み、よく沸騰させて、その中の骨も煮よ。

6 それゆえ、神である主はこう仰せられる。ああ。流血の町、さびついているなべ。そのさびは落とせない。一切れずつそれを取り出せ。くじで引いてはならない。

7 彼女の血はまだ、そこにある。彼女はそれを裸岩の上に流し、地面にそれを流さず、これに土をかぶせようともしなかった。

8 わたしは、憤りをつのらせ、復讐するため、その血を裸岩の上に流させて、これに土をかぶせなかった。

9 それゆえ、神である主はこう仰せられる。ああ、流血の町。わたしもこれにたきぎを積み上げよう。

10 まきをふやし、火を燃え立たせ、肉をよく煮、味をつけ、骨も燃やせ。

11 なべをからにして炭火にかけ、その青銅を熱くして、その中の汚れを溶かし、さびがなくなるようにせよ。

12 しかし、その骨折りはむだだった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお、火の中にあった。

13 あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。それでわたしがあなたに対するわたしの憤りを静めるまで、あなたは決してきよめられない。

14 主であるわたしは言った。それは必ず起こる。わたしはそれを行って、なおざりにせず、惜しまず、思い直しもしない。あなたの行いや、わざにしたがって、あなたをさばく。—神である主の御告げ—」

 

私は理科に疎いですから、鍋のさびが何かを煮込むことによって取ることが出来るかどうかはわかりません。

 

鉄が酸化して出来たさびもあるでしょうが、それを火にかけて使うわけです。それがさびを取れにくいものにしていませんかね。

これまでの経験上、一度ついた鍋(とかフライパン)は、鉄のたわしでこすり取るしか方法がなく、きれいに取る方法は無いと思います。

 

前章から例えられる”イスラエルの娘たち”のさびもまた、そのようなものであったことが伝わってきます。

何をやっても取れないさび→偶像礼拝、淫行の罪でした。

 

そもそも、本人たちに「このさびを取りたい、何とかしたい」という意思がなかったことがポイントでした。これ、大事なところだと思います。

罪からきよめらえるには、自発的意思が必要だということで受け取ってよいと思います。

これはもう、神と人間の関係性においての摂理なのかも知れません。

神は待っておられます。人間の自発的意思を。

すべての人間を操り人形のごとく操作してご自分を信じさせるのではなく、一人一人の意思で神を必要とすること、信じること、つまりきよめられること→さびを取り去ってもらいたいという意思を待っておられるのです。

 

13 あなたのみだらな汚れを見て、わたしはあなたをきよめようとしたが、あなたはきよくなろうともしなかった。それでわたしがあなたに対するわたしの憤りを静めるまで、あなたは決してきよめられない。

 

きよくなろうとすること。これが神の憤りを静める一つのターニングポイントになるのだと私は思います。

きよくなろうともしなかった人がきよくなろうとするターニングポイント、それが神の怒り・その人の苦痛・・・という風に考えみると、クリアになってきます。

 

少し意味は異なりますが、イエスは「見ずに信じる者は幸い」と言われました。

苦痛・苦悩を経験せずに、イエスを心から信じることが出来れば、それは素晴らしいことだと思います。

しかし、人間が人生の中で苦痛・苦悩を経験しないなんてことはあるでしょうか。

それは、人間が人間でいる限り、必ず起こり得ることであると言えます。

神が起こされれている場合もあるでしょうが、人間が人間であるがゆえに起こってくる苦痛・苦悩もまたあるかも知れません。

それは、自発的意思で神にきよめられていくチャンスなのだとわかってきます。

 

神なんていないよ、神がいたら戦争ない、病気ない、痛みない・・・というのは、神がいない理由としてよく言われる事です。

しかし、神は確かにそういう苦痛・苦悩の無いところへと、やがてみちびいてくださることを約束しているのが聖書です。

そのためには、人間の意思が必要なのです。強制ではないということです。

 

ですから、神ゆえであれ、自分ゆえであれ、そういう苦痛・苦悩は、チャンスなのです。

苦痛・苦悩から完全に開放されるのは、聖書によれば、それはまだ先になります。

そして、聖書によれば、そこに至るには、そのさび・罪を取り除かれる必要があります。

さびは自分ではどれだけ頑張っても、何をためしても、取り除かれることはありません。滝に打たれても、食べることを我慢しても、無理なんです。

ただイエスを信じること。イエスが既に罪を負ってくださっていることを、感謝して認めること、信じることによってのみ取り除かれると、聖書は言っています。

 

それまで何をして来たか、どんな悪いことをしてきたかに関係なく、さびを除かれたいというその一心でイエスを信じるなら、それは取り除かれると言います。

苦痛・苦悩の無い場所へはまだ行けなくとも、罪から離れてきよく生きる人生へとみちびかれます。美しくされます、やり直せます。何歳でも今日からでもです。

 

私は今日のみことばから、福音の重さと一種の摂理を感じました。

自発的にきよめられる意思、これが今日も私自身に更に強くあるように。

 

異国の地での生活が今日で終わります。

私は、私自身による自画ではなく、誰がどう見ても人生が変えられた一人だと思います。

きっとここでの生活は、これからイエスを伝えていく時の証になるでしょう。

本当に感謝なことです。このように変えられるんですから。