18 ついで、私に次のような主のことばがあった。

19 「人の子よ。バビロンの王の剣が来るために、二つの道にしるしをつけ、二つとも一つの国から出るようにせよ。町に向かう道の始まりに一つの道しるべを刻みつけておけ。

20 剣がアモン人のラバか、ユダ、すなわち、城壁のあるエルサレムに行けるように道にしるしをつけておけ。

21 バビロンの王は、道の分かれ目、二つの道の辻に立って占いをしよう。彼は矢を振り混ぜて、テレフィムに伺いを立て、肝を調べる。

22 彼の右の手にエルサレムへの占いが当たり、彼は城壁くずしを配置し、虐殺を命じて口を開き、叫び声をあげて、城壁くずしを門に向かわせ、塹壕を掘り、塁を築く。

23 彼らは、何回となく誓われても、その占いはうそだと思う。だが、彼は彼らを捕らえて、彼らの不義を思い出させる。

24 それゆえ、神である主はこう仰せられる。あなたがたのそむきの罪があばかれるとき、彼が、あなたがたの不義を思い出させて、あなたがたのすべてのわざに罪が表れるようにするため、また、あなたがたが思い出すため、あなたがたは彼らの手に捕らえられる。

25 悪に汚れたイスラエルの君主よ。あなたの日、最後の刑罰の時が来た。

26 神である主はこう仰せられる。かぶり物は脱がされ、冠は取り去られる。すべてがすっかり変わり、低い者は高くされ、高い者は低くされる。

27 廃墟だ。廃墟だ。わたしはこの国を廃墟にする。このようなことは、わたしが授ける権威を持つ者が来るまでは、かつてなかったことだ。

28 人の子よ。預言して言え。神である主はアモン人と、彼らのそしりについてこう仰せられると言え。剣、一振りの剣が、虐殺のために抜き放たれた。いなずまのようにして、絶ち滅ぼすためにとぎすまされた。

29 彼らがあなたにむなしい幻を見せ、あなたにまやかしの占いをするとき、その剣は汚れた悪者どもの首に当てられ、彼らの日、最後の刑罰の時が来る。

30 剣は、さやに納められる。あなたの造られた所、あなたの出身地で、わたしはあなたをさばく。

31 わたしはあなたの上にわたしの憤りを注ぎ、激しい怒りの火を吹きつけ、滅ぼすことに巧みな残忍な者たちの手に、あなたを渡す。

32 あなたは火のたきぎとなり、あなたの血はその国の中で流され、もう思い出されることはない。主であるわたしがこう語ったからだ。」

 

この神から与えられる言葉を聞くのが私自身であったなら、一体どう思うのでしょうか。

 

この時点でその仮想の”私自身”は、偶像にまみれて神に背を向ける存在です。

私はおそらく、エゼキエルが語っていることが本当に神が語られたかどうかを疑うと思います。

神がどうしてイスラエルを破滅させる時が必要であったことがわかってきます。

 

しかし、ここで語られているところで、バビロン王が占いをするというくだりがあります。

わざわざこのように説明されるのは、この預言をよりリアルなものであるとわからせるためなのかと思いました。

 

というのは、偶像に向かってあれこれ聞いて判断するバビロン王ですが、それが的中する形でエルサレム陥落まで進むのだと。

そして、イスラエル人たちはその占いは嘘だと高を括るも捕らえられるのだと。

 

この状況、そのあほらしい占いをも神によるご采配であるということです。

これが実際に起きた時、確かに何度も神が言われる通りに、この神が本当の神である”主”であることを知るようになるはずです。

エゼキエル書というのは、そういう書であることをあらためて定義されているように思いました。

 

信じない人には、まるで妄想のようなうわ言のように聞こえるものですが、信じる者には備えになるでしょう。

しかし、人が信じるか信じないかではなく、起こると言われることは必ず起こるのです。

それは、信じない者には信じる者にさせるため、信じる者には備えさせるため。

そのように思いました。

 

今日のみことばからは、そういう神の緻密さからチャレンジを受けています。

人に何かを伝えようとする時、緻密であったり丁寧であったりした方が、当然伝わります。

しかし昨今の社会的な傾向として、伝えることを急ぎ過ぎるところがあると感じています。

それは、ネットによる認知が進んだため、1つの情報に長くとどまることが難しくなったのかなあなどと想像しています。

いずれにしても、簡潔に、簡潔に、、、それがもてはやされる時代です。

 

そこをあえて詳しくすること。特に想像するのは仕事の場面ですが、それをやってみようと思います。また、肝心の伝道のこと、誰かとの会話のことなのかも知れません。話を急ぎ過ぎず、相手の顔色をうかがい過ぎず、詳しく丁寧に伝えること。

預言に倣うって、なんだか変わった感じもしますが、それがチャレンジでしょう。

 

昨日の礼拝への参加で、外国での活動が全て終了しました。日本に戻ります。

自分の意図ではない習性のようなものってあると思うのですが、私はとにかく、定住しないんです。十代の頃親の家から出ると、次から次へと住む場所が代わり環境が代わりを繰り返してきました。

その中で作られた性格のようなものがあるのですが、昔を切り捨て今を生きる、と言えば極端ですが、前に住んでいたところや環境を捨てて次に移っていくところがあるんです。新しい地で、ムキになって生きるからでしょう。

教会では湿っぽい交わりを交わした後、後ろ髪をひかれる思いで帰路についたのに、その夜には、8月中頃から日本に来ている人と会う約束をしたり、その他の人にもメールを送ったりしているのですから、本当に自分に驚きます。

 

様々な素晴らしいことや出会いがあったこの地でのことも、私は捨てることになると思います。そういうことがわかっているだけに、ものすごく寂しくなっています。

 

しかしパウロは、次の地、次の地へと開拓してく途中で、去った教会への手紙を送り、それが新約聖書の多くを占めていることを、私は思い出すべきでしょう。

神が喜ばれるのは、「捨てていくことではない」。

これは私には励ましのメッセージとして響きます。