27 それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に語って言え。神であるある主はこう仰せられる。あなたがたの先祖は、なお、このようにして、わたしに不信に不信を重ね、わたしを冒涜した。

28 わたしが、彼らに与えると誓った地に彼らを連れて行ったとき、彼らは、高い丘や茂った木を見ると、どこででも、いけにえをささげ、主の怒りを引き起こすささげ物をささげ、なだめのかおりを供え、注ぎのぶどう酒を注いだ。

29 そこで、わたしは彼らに言った。あなたがたが通う高き所は何なのか。今日でもその名をバマと呼ばれているが。

30 それゆえ、イスラエルの家に言え。神である主はこう仰せられる。あなたがたは父たちの行いをまねて自分自身を汚し、彼らの忌まわしいものを慕って姦淫を犯している

31 しかも、ささげ物を供え幼子に火の中を通らせ、今日まであらゆる偶像で身を汚している。イスラエルの家よ。わたしはどうして、あなたがたの願いを聞いてやれようか。わたしは生きている、—神である主の御告げ—わたしは決してあなたがたの願いを聞き入れない。

32 あなたがたが、『私たちは木や石を拝んでいる異邦の民、国々の諸族のようになろう』と言って心に思い浮かべていることは決して実現しない

 

正直な気持ちを言うと、日本は神に滅ぼされるのではないかと思います。

 

日本はイスラエルのように、民族として神と契約されているわけではありませんが、神の祝福の対象であり、神の期待であることも確かです。

 

しかし、何らかの正当性を伴わせながら、激しい性への貪りは増幅していくばかりに感じるからです。

聖書が明確にする性行為の正しい在り方は、婚姻関係にある男女の夫婦間によるもののみで、それは「楽しめ」とされているほどです。

婚前の性行為、婚姻関係にない者との性行為、男同士の性行為は罪だとされています。

 

このことを無視するかのように、日本の社会は(とりあえず日本に焦点を当てると)性欲を処理することがまるで人権の一部であるかのように扱う風潮があります。明らかに、人権ではないですね。

個人的には、たとえこの聖書の神を信じていなくとも、ここにある根深い罪性をしっかり捉える必要があると思います。男女の婚姻関係以外の性行為を社会全体がはっきりと「NO」とすべきだということです。このことによって、世の中は好転すると思います。

しかし、そうでなければ、本当に日本を滅ぼしてしまわれるのでは、と感じてしまいます。

 

古代のイスラエルで行われた、偶像礼拝を根拠とした不特定多数との性行為は「望まれない妊娠」が多数起きることになりました。

そして、そこで生まれてきた子供は、なんと「いけにえ」とされて焼かれたのです。

この性の堕落と幼児→罪の無い者の虐殺行為をセットで「信仰」の行いとされていたのですから、それはもう狂気と破滅の社会であったと言えます。

日本には、望まない妊娠で生まれてきた赤ちゃんを焼き殺す風習はありません。

しかし、中絶はやむを得ないとされる傾向が強いですし、「水子供養」などとして、まるでその罪が赦されるかのような儀式習慣を持っています。とんでもない誤りです。そのことによって、望まれない妊娠の可能性を秘めた性行為の罪を中和しているようなものです。中和なんて出来ないばかりか、その儀式自体が激しい罪であるということです。

 

香が炊かれて、石造が並んでいる姿を見れば、なんとなく厳かな気持ちになったりします。それを拝んでいると、なんだか心が浄化されるかのような気分にもなります。

現実は、その真逆が起きています。その神ではない人造の者を神だとして拝み、浄化されてもいない罪を浄化された気分になっていることが、この聖書に現わされる創造主である神の目には、見逃されない猛烈な罪です。

 

自分が大事にしてかわいがっている我が子が、見知らぬ大人のことを「お父さん」とか「お母さん」とか言って近づいていく姿を見ると、本当の親である”自分”はどう感じるでしょうか。

見知らぬ大人ならまだましです。彫像や石像、自然や太陽を「お父さん」と呼んで慕っている姿を見たら、どう感じますでしょうか。

 

ご自身が創造された人間が、神ではない・父ではない物を「父」と呼んで近づいていく。その時の神の心をまずは汲みとるべきなのです。

 

32節にあるみことばは、そういう猛烈な罪を正当化し続ける者が思う心を指し示していると思います。

そして、そういう心は、神を信じているとはばからない私自身にも、実は祈りとしてあらわれることがあるということを、察知させてくれます。

性に限らずです。欲がどんどん叶えられることを祈ってしまうという習慣です。

心当たりがありますね。はっきりとここに罪が現れてしまっているのです。

 

今日、私がまずすべきことは、フォーカスを合わせなおすということです。

社会がどうであれ、神にフォーカスして生きることです。

そうすれば、悔い改めが沸き上がります。悔い改めるところから、神は新しい道を開いてくださるお方です。

もう何度も通ったところと言えますが、今日もまた真剣にその道を通るべきであることを思わされます。