1 あなたはイスラエルの君主たちのために哀歌を唱えて、
2 言え。
あなたの母である雌獅子は何なのか。雄獅子の間に伏し、若い獅子の間で子獅子を養った。
3 雌獅子が子獅子のうちの一頭を育て上げると、それは若い獅子となり、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。
4 諸国の民はその獅子のうわさを聞いた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。彼らは鉤でこれをエジプトの地へ引きずって行った。
5 雌獅子は、待ちくたびれ、自分の望みが消えうせたことを知ったとき、子獅子のうちのほかの一頭を取り、若い獅子とした。
6 これも、雄獅子の間を歩き回り、若い獅子となって、獲物を引き裂くことを習い、人を食べた。
7 この獅子は人のやもめたちを犯し、町々を廃墟とした。そのほえる声のために、地と、それに満ちているものはおののいた。
8 そこで、諸国の民は、回りの州から攻め上り、その獅子に彼らの網を打ちかけた。その獅子は彼らの落とし穴で捕らえられた。
9 彼らはそれを鉤にかけておりに入れ、バビロンの王のもとに引いて行った。彼らはそれをとりでに閉じ込め、二度とその声がイスラエルの山々に聞こえないようにした。
10 あなたの母は、まさしく、水のほとりに植えられたぶどうの木のようだった。水が豊かなために実りが良く、枝も茂った。
11 その強い枝は王の杖となり、そのたけは茂みの中できわだって高く、多くの小枝をつけてきわだって見えた。
12 しかし、それは憤りのうちに引き抜かれ、地に投げ捨てられ、東風はその実を枯らし、その強い枝も折られて枯れ、火に焼き尽くされた。
13 今や、それは、荒野と砂漠と、潤いのない地に移し植えられ、
14 火がその枝から出て、その若枝と実を焼き尽くした。もう、それには王の杖となる強い枝がなくなった。」これは悲しみの歌、哀歌となった。
水のほとりに植えられたぶどうの木のようだった、というのは、特にダビデからソロモンに続いたイスラエル王制の初期時代のイメージが沸き上がってきます。
なんとイスラエルは、王三代目にして覇権国家に成り上がったのですから。
しかしその繁栄した国家は、ついに神に引き抜かれてしまうに至った・・・哀歌になったというのは、イスラエルの民にとっての哀しみであったでしょうが、神にとっての哀しみであるはずです。
前章から悟るべきところは、神の哀しみであるようにも思いました。
神は愛であられます。
多くの人は、その愛の一面でしか神を見ようとしません。
しかし、神は同時に正義であられます。
正しさがあります。神の正しさは一切の妥協の無いものです。
罪を受け入れられません。罰すべき者は必ず罰する、お方です。
神がここで繁栄しながらも霊的に堕落しきったイスラエルを”枯らす”しかなかったのは、その正義によって成されたことです。
昨今は、SNSの普及によって自分なりの正義を匿名で主張することが流行りとなりました。
様々なニュースに対して、どこで何をしているかもわからない匿名者が正義を主張し、それが塊となって世論を形成してしまいます。個人としては、全く無関係の事件を、正義か悪かで裁いて楽しんでいるだけなのに、それが大きく強い世論となるのです。自分の事を神であると言っているようなものです。
問題は、それが国や社会の行先を方向づけてしまいかねないということです。
偽物の神の正義によって、国家や世界全体の方向性が決められてしまう。本来あってはならないことです。
神の正義が本物である裏付けとして愛があるのだと悟るべきです。
神はその正義の鉄槌を、ただ痛めつけようという意思、ただ裁いてやるぞという”いじめっ子”のようなマインドセットで人に振り下ろされるのではないということです。
それが、神の哀しみ、哀歌という表現にあらわれていると私は思います。
本当の正義者、唯一の正義者は、ただ頑強な正義を突き付けられるお方ではなく、愛の現れとしてのあわれみ、悲しみを持っていてくださること。これは福音ではないですか。
その福音に与ること、つまり、この神を唯一の救いとして受け取ることは人として当然合理的です。唯一ですから。
ちょっと自分の思考をあまりに真ん中に置きすぎているようにも思うのですが、今日のみことばを繰り返し読むと、そんな神の本質へと誘われているような気持ちになりました。
今日の適用は、自分の正義を置こう、ということです。
偉そうなことを言いながら、私もさまざまな場面でお手製の正義を気取るのです。正義者ヅラするのです。
しかし、正義は気取るようなものでありません。自分を飾る物ではありません。
そういう自分を封印すること。それが今日の課題です。