1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」

2 その方が私に語りかけられると、すぐ霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた。そのとき、私は私に語りかけることばを聞いた。

3 その方は私に仰せられた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民、すなわち、わたしにそむいた反逆の国民に遣わす。彼らも、その先祖たちも、わたしにそむいた。今日もそうである。

4 彼らはあつかましくて、かたくなである。わたしはあなたを彼らに遣わす。あなたは彼らに『神である主はこう仰せられる』と言え。

5 彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、彼らは、彼らのうちに預言者がいることを知らなければならない。

6 人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。たとい、あざみといばらがあなたといっしょにあっても、またあなたがさそりの中に住んでも、恐れるな。彼らは反逆の家だから。そのことばを忘れるな。彼らの顔にひるむな。

7 彼らは反逆の家だから、彼らが聞いても、聞かなくても、あなたはわたしのことばを彼らに語れ。

8 人の子よ。わたしがあなたに語ることばを彼らに語れ。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。

9 そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。

10 それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。

 

考えている時とか、想像している時には、そうだ恐れる必要などないぞ福音を大いに語ろう、と燃えています。

しかし、実際に人前に行ってみると、尻込みをしてしまうことがよくあります。

 

そうすると、本当におれは大丈夫なんか、信じてるのか、などなど、ネガティブな言葉を自分に向かってかけてしまうことがあります。

 

ここで、今日のみことばで語られるところがとても参考になってきます。

神はエゼキエルに、わたしがあなたに与えるものを食べよ、と言われます。

この「わたしがあなたに与えるもの」を「食べる」が、私にはとても大事なことだろうと考えました。

 

食べる、については、色々なみことばがありますし、考えることもできます。

ジーザスも、知的理解ではなく「食べよ」と言われています。

おいしそうなごちそうを目の前にしても、それを食べないと味がわかりません。

神の言葉は、知るから始まるのかも知れませんが、食べてものにしていかなければその素晴らしさはわからない、ということです。

 

とても簡単なことのはずです。

神を信じています。ジーザスを信じています。その神が言われることを、そのまま自分のものにしていくだけです。行動とか発言とか、そういうアクションは自然に出て来るでしょう。

 

私は自分自身に関することとして、雑食になっていないか、ということを問いかけます。

清濁併せのみしていないか、ということが大きな課題になってくると思います。

 

世の中の正しさ、常識がむしろ先立ってしまう時、それを行動の基準と考えて、神のみことばは知的に受けるということが時々起きていると思います。

神のことばは完璧です。正しさに満ちているものです。そこから、世の中における正しさも常識も正義も出て来るのですから、もっと、ものにして自信をもってよいものです。

 

パウロは、福音を恥じない、と言いました。

ところが、清濁併せのみは、福音を時に出してはいけないものとする事があります。

そういう自分をよく吟味して、もう一度、何度も何度も、悔い改めてジーザスを受け入れて、お入りくださいと祈る必要があることを思わされます。

信仰は信仰です。一度もったらその維持が補償されているものではなく、神が、ではなく私自身が、それを放棄してしまう危険性があることを覚えておかなくてはなりません。

ですから、その受け入れる決断を、絶えず行っていく必要があるわけです。

それが、食べること、になるのかなと思います。

 

エゼキエルに与えられた巻物は、現代の福音とは違うものですが、そのプロセスに整合性のあるものでした。

ジーザスはご自分を「パンだ」と言われました。

このことを覚えて、あのお方のみを食べるようにしたいと思います。