6 これらのことを兄弟たちに教えるなら、あなたはキリスト・イエスのりっぱな奉仕者になります。信仰のことばと、あなたが従って来た良い教えのことばとによって養われているからです。
7 俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。
8 肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
9 このことばは、真実であり、そのまま受け入れるに価することばです。
10 私たちはそのために労し、また苦心しているのです。それは、すべての人々、ことに信じる人々の救い主である、生ける神に望みを置いているからです。
11 これらのことを命じ、また教えなさい。
12 年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。
13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。
14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。
15 これらの務めに心を砕き、しっかりやりなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。
16 自分自身にも、教える時にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。
まるで教会でのメッセージを聞くようなパウロからの噛み砕かれたアドバイスです。
空想話を避ける→聖書に言及されない妙なストイックさでしょう
敬虔のための鍛錬→聖書を読むことからはじまる日々の習慣化でしょう、それは肉体の鍛錬よりはるかに有益だと
エペソ教会で労す若いテモテに対しての”命令”級のパウロの言葉です。
教会の信徒を育てることになるのだけど、自分自身のためになると言います。
教える時に最も学ぶというのは、よく言われることです。
自己鍛錬という言葉をクリスチャンはちょっと避けたがる傾向があると思うのですが、パウロは、筋トレ(→体のための日々のルーティン)もまあ良かろうが、信仰・敬虔のために日々の積み上げが役立つぞ、と言うのが、もっとも私には響き渡る内容です。
というのは、私は確かに毎日決まったメニューで少し筋トレするのですが、これを同じことを「がんばれ」と言っているように聞こえるますから、割と理解しやすいのです。
学生の頃、すごく好きになった女子学生がいて、私はとても頑張りました。
携帯電話もインターネットも無く、面と面で会わなければ育めるものが少ない時代でした。なんとか学内で会えるようにと頑張り、そして接点を持ち続けました。
そしてある時、交際を申し出たのですが断られました。
その反動で、私は部活に徹底的に打ち込むことになりました。
ちょうど部活はオフシーズンで、冬期休暇に入ったところでしたが、一人で練習して筋トレして過ごしました。
恋愛での頑張りは、その成功の確率を上げるわけではありませんが、そういう練習や筋トレは、着実に良い選手になるために前進することが出来ると思ったのです。
ちなみにそのことをきっかけとして、トップリーグのクラブにアクセスすることが出来、大学卒業後に加入することになりました。
私は、パウロが言うことは、その感覚で受け取ることが出来ます。
ジーザスを信じることについて、敬虔とは、ここまでやったから敬虔とか、敬虔と言う資格得たとがではありません。
しかし、聖書を読むこと、祈ることなどの毎日の積み重ねは、着実に、敬虔な方向へと進歩できるから”有益”だと言うメッセージに聞こえるのです。
それは、今の命に有益で、永遠の命にも有益。それ以上有益なものなんてないでしょう、この世の中には。
そして、言葉は悪いですが、そういう敬虔へのビルドアップは、ごちゃごちゃ考えず、議論せずとも”そのまま受け取れ”と言っています。
これが、”命令級”だと私が思った理由です。
今日のみことばからは、これを適用します。
何か、希望のある「頑張り」を。毎日のルーティングに加えることです。
昨日の教会での礼拝は特別なものとなりました。
牧師ご夫妻にある悲しみが訪れてしまったのですが、それを皆で受け止めること、それさえも感謝するという、チャレンジに満ちたものでした。
教会というというのは、こういうことを言うのだな、と教えられました。
牧師さんはその悲しみについて伝えることが精一杯で、メッセージは別の人に任されました。そして急遽講壇に上がったのは、普段からなれなれしく接していた(接してしまっていた)高齢の方でした。その方は実は前の主任牧師さんでした。私はいつも親切に接してくれるおじいちゃんだと思っていたので驚きました。
そしてその内容は、最近のシリーズを引き継いだ1ペテロ2からのものでしたが、信仰の成熟について元主任牧師が取り次いでくれた結論は、神のめぐみは追いかけてくる、ということでした。私の一生の聖句と言える詩編23節がよみがえるものでした。
メッセージの終わりの祈りの時、
Lord, Thank you for your chasing.
と祈られた時に、わっと満たされるものと感じました。
正直、現在の主任牧師の悲しみ伏して、それでも感謝することって、一体どうしたらよいのかという気持ちになっていました。外国人である私たちに対して、とてもよくしてくださったあの夫妻の悲しみを受けてただひたすら悲しかったのです。
しかしそれは、確実に神が共におられることの証明というか、預言というか、そこにこそとんでもないめぐみが注がれているんだということを体感する時間になりました。
必死でめぐみを追い求めるのですが、それが無かったことを通して、神が追いかけてくださっていることを十分に悟らされました。その成熟に至るべきなのです。
感謝すべき、ではなく、本当の感謝がそこにあるからです。感謝であふれるということです。ああ本当に感謝ですね。
それは、火のような感謝で、日付変わって翌朝を迎えて今もまだ消えないものです。
そしてみなで賛美しました↓